黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

3章II (1/2)

 「創造する」という言葉はよく平凡な知性に、何もない無から徐々に進化させる概念を伝える。明らかにそれはそのような意味ではない。私たちは世界がそこから生まれてきたところの混沌により創造する創造者を用意するよう精神的に強いられる。社会生活の典型的な生産者である土を耕す人は、自分の物質を、地面を、空を、雨を、太陽を、そして地中にまく種を、持たねばならない。無からは無しか生み出せない。自然界は真空(ボイド)からは生まれない。物質が、世界に対する私たちの欲望により形づくられた母なる自然の向こうに、背後に、内部に、またそこから、発生し存在している。種と、種を成長させる地と空気と水は、行為のあらゆる段階に存在するということは、明白な事実である。発明家と話をしてみると、彼が今していることのずっと先のことがわかると知るだろう。彼は常に、言葉に表現できないけれど他にもやらねばならないことを知ることができる。言葉に表現できない理由は、彼がまだそれをモノとして世に生み出していないからである。その目に見えないモノの知識は詩という形でより一層はっきりとする。そしてその意識の一部を他の人たちと分かち合うまでは、彼はそれをうまく表現できない。だが彼の偉大さに正確に見合う分だけ、彼は普通の人には存在し得ると信じることさえできない意識の中に住まう。その意識は、より大きな世界に住む意識であり、より広い大気の中で呼吸している。その広い大気は、より広い地と空を見守り、巨大に成長した植物から種をもぎ取る。

 手を伸ばす必要があるのは、この意識の場にである。この意識の場が天才のために取ってあるのではないことは、殉教者や英雄たちが発見しその中に住んだという事実により示される。それは天才のためだけにあるのではなく、偉大な魂を持つ人々だけがそれを見つけることができるのである。

 この事実にがっかりする必要はない。人間の偉大さは生まれつきのものであると、たいていの人が思っている。この考えは思考が望んだ結果に違いなく、自然界の事実に対し盲目であることの結果である。偉大さは成長によってだけ達せられる。そのことは絶えず実証されている。山々でさえ、そして堅い天体そのものでさえ、成長という方法によって偉大なのだ。原子の寄せ集めという物質的な状態にとっては、それは奇妙なことであるが。すべての存在の形態に本来備わっている意識は、より進歩した生命の形態になってゆくにつれてより活動的になり、そうなるにつれて蓄積によるのではなく吸収(同化)によって進歩の力を手に入れる。(つづく)

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3章 最初の努力 Ⅰ

 これは容易に見てとれることだが、人生上あるいは経験上に、ほかの時よりも事物の精髄(ソウル)に近くなる地点というものはない。磨き上げられた輝きを放ちながら満ちあふれている事物の精髄、または崇高な本質はこの大気に存在し、門の向こうでそれ自身を色づけする。しかし、この精髄はその真の性質により普遍的であるはずだという事実を、すぐに知ることのできる道は一つもない。黄金の門は特別な場所へ入って行く入り口ではない。特別な場所から出て行くための出口なのである。己の限界から解き放たれる時に、人はそれらの門を通り抜ける。そうすることが最も可能となる時に、人は闇の中に自分をとどめておく殻を破り、永遠のものを隠す覆いを引きはがすだろう。その可能となる時は、自分で予期せぬ時にこそ容易にやって来るだろう。人々は精神的な助けによって殻から脱出せんと求め行き、到達できないと見えるものにどうやって到達するのかということに関し、気まぐれで制限がある諸法則に屈するのだ。大勢の人は確かに、宗教という手段で切り抜けることを望み、思いと感情に行き場を与える代わりに、まるで幾時代もの間も、はまった型から外れることを可能にするには足りないと言わんばかりに、強く固定されてしまっている! ある人たちは純粋な知的能力により道は見つかると信じる。このような人たちのおかげで人類は完全な感覚への沈没を防ぐ哲学や形而上学を有する。だが人類の列の最後尾の人(訳:つまり最近の人)は思考によってのみ生きようとするので、空想の中に住む。そして現実の食べ物は他人にせがむのである。形而上学や超越論的哲学者に負うところは大きい。しかし彼らにとことんまでついて行き、脳が一器官として使うものにすぎないことを忘れ、議論の鈍い車輪が永遠に軸の周りを回っているような場所に自分がとどまっていることに気づくであろう。いまだにどこへも行かず何の積み荷も運べない車輪のところにである。

 美徳(あるいは人それぞれに美徳と思われるもの、道徳性と清らかさに対するその人自身の特別な基準)は、それを天界に至る道として守り実践する人々が持つものである。恐らくそれは、現代の快楽主義者にとっての、道徳的な享楽である。きれいな生活と立派な思想で食通になることは、味わいや視覚や音の快楽に劣らずたやすい。有徳な人はもちろん大酒飲みも、その意図するものは満足感である。たとえ、ある人の生活が驚くほど禁欲的で自己犠牲的だったとしても、彼の一瞬の思いが示すのは、見たところ英雄的な道を追いかける中で快楽を追求しているのだということだ。その甘い味に満足して、快楽は魅力を呈し、他人のおかげで自分が楽しむよりむしろ自分が他人を喜ばせることに満足する。もうその清らかな生活と高尚な思考はその人たちにとって最終的な状態ではなく、そのことは他の形態の喜びと同じである。そしてそれらの中に心の安らぎを見出そうと努める人は、努力の度を増し、絶えずそれを繰り返すーーすべてかいのないことだ。その人はまさに緑の植物であり、美しい葉っぱをしているが、大切なのは葉っぱではない。もし彼が知りもしないゴールにもう到着したと信じて、盲目的な試みを続けるならば、善行をせざるを得ない、そして美徳の行為も愛の輝きのないものとなる、憂鬱な場所に自分が置かれていることに気づく。清い生活は、手を清潔にするのと同じように良いーーそうしないと人はおぞましい者となる。しかし美徳はもう私たちの本質の他の部分以上のものではないということがわかる。霊は物質から発するガスではない。ある物質の因子を無理やり用い安らぎを失うことで未来を創造することはできない。霊は大いなる生命であり、物質は霊の上で安らいでいる。それはちょうど自由な流動体のエーテル上にある岩でできた世界のようだ。私たちは古い殻を破る時はいつも、自分自身が素晴らしい向こう岸にいるのがわかる。その岸はかつてワーズワースが見た、黄金の門の輝きがある。そこへ入って行く時、すべての現存するものはーー美徳も悪徳も、思考も感覚も、一様に消え失せるだろう。自分がまいた種を自分で刈り取るということも、もちろん真実であるに違いない。物質的生活の美徳を持ち続ける力はその人にはもうない。それでも、その人の善行の香気は罪と残酷さの匂いよりもはるかに良い香りの捧げ物である。しかし、美徳を実行することによって、その人は一つの型、一つの変えられない流儀に自分をはめこみ、縛り付けてしまうかもしれず、それがあまりに揺るぎないために、死は自分を自由にしてくれるということを心に思い描くことができないし、広大で輝かしい海ーーつまり黄金の門の重くて動かない掛け金を外すに十分な力ーーへと自分自身を投げ出すことができない。そして時に、ひどい悪事を犯し利己的な満足という猛烈な火で全性質が傷だらけ且つ真っ黒になった人は、とうとう完全に燃え尽きて炭になってしまうため、激情の真の活力から火が飛び出て行ってしまう。このことは、少なくともただの苦行者や哲学者よりも、門の入り口に達した人のほうに起きやすいだろう。

 だが門に達するのはたやすく、門を通り抜けるのに必要な強さがなくともたどり着ける。さらに言えば、たどり着くことだけが罪人の望むことのできるすべてであり、それは彼自身の魂の見地からは死の到来により達せられる。これは少なくともその通りに思える。彼の状態はネガティブだから必然的にそうなのである。黄金の門の掛け金を外す人は、自分自身の力強い手でそうせねばならず、その際完全にポジティブであらねばならない。このことを類推により見ることができる。人生における新たなことのすべて、新たな一歩や成長において、意志を最も支配的にして完全にする訓練が必要である。実際多くの場合、たとえ長所を持っていたとしても、そしてたとえある程度の意志が使えたとしても、最終的な、揺るぎない決意に欠けていることから、彼は望むものを手に入れることに完全に失敗するだろう。世界中のどの教育も、人をその時代の知的栄光に仕立てられないだろう、たとえその人の力が大きくても。その人が完成の花をつかもうと断固として望まない限り、無味乾燥な物知りや、言葉をたくみに扱う人や、機械論的な思考の達人や、ただの記憶の車輪にしかなれないだろう。このポジティブな資質を持っている人は、状況が逆らおうとも立ち上がり、自然な栄養物である思考の潮流を知って把握し、自分が達せんと志した場所に、ついには巨人として立つだろう。このことは現実に、人生のあらゆる方面で毎日見られる。単に自分の性質のドグマティックで限られた部分を粉砕したいという熱情によってだけでは、これらの偉大な門をくぐり行くのは不可能に思える。しかし、偏見で目が見えなくなっていない限り、そして思考の車輪にしがみついていない限り、そして魂の車輪が人生の深い溝にはまってしまっていない限り、ひとたびポジティブな意志が彼の中に生じたならば、しばらく彼は希望を失わずに、大変離れたところにある掛け金を外そうと手を伸ばすだろう。

 疑問の余地なく、人生上これまで見た中で最も厄介な仕事は、まさに今のこの話題ーー人をすべての偏見から解放すること、すべての結晶化した思考や感情から解き放つこと、すべての制限から自由にすること、そして内なるポジティブな意志を発達させることだ。それはあまりにも奇跡的すぎる。普通の生活の中でポジティブな意志は常に結晶化した考え方と結びつくであろうからだ。実現するにはあまりにも奇跡的すぎるように見える多くのことが、まだ為されていない。現在の人間に人生という限られた経験の場が与えられているのに、である。困難は落胆する言い訳にできないことを過去のすべてが示す。まして絶望の言い訳には。そうでなければ世界には多くの驚くべき文明がなかっただろう。もっと真剣にものごとを考えよう。それゆえ、ひとたび心が思い描いたことならば、不可能ではないのだ。

 最初の大きな困難は、目に見えない世界に関心を向けることである。だがそれは毎日やっていることで、私たちは自分の行為を導くために、どのように自分が行為するかを観察しさえすればよい。どの発明家も、目に見えないものにしっかりと関心を向ける。そして彼が成功するか失敗するかは、もっぱらその関心の強さにかかっている。詩人は自分の詩を創作する瞬間を眺めて、目に見えないものを見、音のないものを聞くと言う。

 恐らくこの詩人の類推に、知られざる領域(実にその地は「行ったら最後、誰も戻って来ない」目的地)への旅が成功するために船の帆をどうすべきかが含まれている。このことは発明家や、人間の普通の精神的・肉体的レベルを超えたところへ手を伸ばすすべての人に当てはまる。船の帆は「創造」(クリエイション)という言葉にある。

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 ひとたび黄金の門の意義をよく考えたら、それらの門を通って行く以外の人生の形態はないということが明らかになる。それらの門は、大人になるということの花が実を結ぶ場所にだけ通じている。母なる自然界を必要とする人たちにとって、それは最も優しいお母さんである。そのお母さんは決して子供たちにうんざりしたり、人数が減ることを望んだりしない。そして大勢の群衆に向かって腕を広く広げている。その大勢の群衆は生まれて肉体をまとって存在することを望む。彼らがそうすることを望み続ける間は、自然界の母は微笑んで歓迎し続ける。ではなぜ彼女は、ある人たちには戸を閉ざさねばならないのだろうか? 彼女のハートの中である人の人生がまだ尽きていない時に、その魂の百番目の部分がたとえばその地点で発見した感覚を熱望したとして、その魂の人生を他所へ追いやってしまう理由などあり得ようか? 欲望の種は確実に、まき手がまいた場所に芽を出す。それはもっともなことに思われる。さらにインド人の精神の基礎を成す生まれ変わりや何度も肉体化身する理論は見たところ自明の理であり、もはや実例など必要としない東洋の思想のよく知られた一部分である。インド人は、西洋人がその日一日は一生を構成すると知っているのと同じように、生まれ変わりの理論を知っている。この知識の確実性は東洋人の持つ自然の法則という認識の中に存在する。自然の法則は、魂の存在の大いなる流れを統制する。その認識は単純に思考の習慣により得られるものである。東洋人の多くの精神(マインド)を占めていることは、西洋では思いもよらないこととみなされている。このように東洋人は人類の霊的成長という偉大な花を咲かせたのだ。百万人もの人の精神的模範として、仏陀は黄金の門を通り抜けた。そして群衆が入り口のところで懇願したので、仏陀は言葉を残して行くことができた。それらの言葉は、黄金の門が開くであろうことを示すものであった。

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 間違いなく、物質の中にあるものを理解するためには自分自身を教育せねばならないが、同じように物質を超えたものを理解するためにも自分自身を教育せねばならない。誰もが知っていることだが、幼少期は一つの長い適応する過程であり、感覚が働く特別な活動範囲に関してそれらの感覚を働かせるコツを覚える過程であり、物質界の知覚に関して難しくて複雑でまだ不完全な体の組織を完全に使えるように訓練してゆく過程である。子供は、生きようと思うならば躊躇せず徐々に前進するし、真剣にそうする。ある赤ん坊たちは大地の光の中に生まれて、その光にひるみ、彼らの前にある多すぎるタスクに挑むのを拒み、物質的生活を可能とするために成し遂げられねばならないことに取り組もうとしない。その子らはまだ胎内にいる身分へ戻る。その子らがさまざまな部分を備えた道具である肉体を横たえ、しだいに眠りに陥って行くのを私たちは見る。それはもう物質の世界に打ち勝ち、征服し、楽しむようになった大多数の人間のかつてである。この大勢の各々は、よく見知った領域内ではたいへん力強く自信に満ちていても、非物質的な世界に面するとまだ赤ん坊だ。さらに彼らがあちらこちらで、日々そして毎時間、物質的生活の住人である仲間のところへいやいやながらも後退し、すでに経験し理解した意識に固執しているのを我々は見る。すべての純粋な霊的知識を知性が拒絶することは、この怠惰の最も際立ったしるしであり、すべての立場の思想家はこの怠惰のせいで確実に有罪である。

 生まれて最初の努力が多大なものであることは明らかである。そしてそれは明らかに、強さの問題でもあるし、自発的な活動でもある。だがこの強さを習得する方法あるいは習得して使う方法は、意志を働かせる以外にない。すごいものを持って生まれることを期待しても無駄である。人生の領域には、その人自身の過去よりほかに継承するものはない。彼は彼のものを蓄積せねばならない。己れの目を偏見によって盲目にしてしまうことのない観察者にはこのことは歴然としている。たとえ偏見を今ここに持っているとしても、その事実を感覚ある人間が気づかずにいるのは不可能である。そのことは、死後長い年月にわたって続くか、または永遠不滅であるかのいずれかの救済の教えを、私たちが得ることからわかることだ。その教えは自然界の真実を狭く限られた愚鈍な方法で示すもので、人は蒔いたものを刈り取るだろう、というものである。スウェーデンボリの偉大な知性には次の事実がたいへん明確にわかった。つまりこの特別な存在に関する最終的状態を強く思い込みすぎて、その先入観が、もはや感覚の世界で行動することがなくなった時に新たな行動の可能性があることに気づけなくしてしまうことをである。人は科学的観察を求めて独断的になり過ぎ、春の後に秋が来て、昼の後に夜が来るように、誕生の後に死が来るはずであることを見ようとしない。黄金の門の入り口に非常に近いところまで行き、ただの主知主義を超えて、ある地点にちょっとだけ立ち止まってもさらに一歩先へ行く。過去に得たものを超えた人生をのぞき見ると、どうやら宇宙を包含しているようだ。そして経験の断片から、全人生を包含する理論を持つようになって、その状態を超えて前進するのを拒んだか、もしくはその状態の外にある可能性を拒んだのだ。これはうんざりする円輪をぐるぐる回すことの、もう一つの形態にすぎない。しかしスウェーデンボリは何よりもまず、黄金の門が存在し、さらにそれは思考の高所から見えるという事実を目撃する大勢の証人たちの一人であり、彼は門の入り口から私たちに感覚のかすかな高まりを投げかけてくれた。

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2章 入り口の神秘 Ⅰ

 間違いなく、人生の新しい段階の入り口では、あるものを捨てなければならない。子供は大人になった時に幼稚なことをやめる。聖パウロはそのことを示し、彼が残した多くの言葉とともに、彼が不老不死の霊薬を飲み黄金の門へ至る道を歩んだことを伝えた。カップ一杯の喜びの中に入れた神の飲み物の一滴一滴により、何かがカップから不浄なものを取り除き、その魔法の一滴の入る場所をつくる。それは母なる自然がその子供たちに物惜しみせずに与えるからだ。人のカップは常にいっぱいに満たされている。もしこの素晴らしい、生命を与える本質を飲むことを選んだなら、その人は自分自身のより低俗でより繊細さに劣る部分を捨てなければならない。これは毎日、毎時間、一瞬一瞬に命の飲み物を増やしていくために為されなければならない。そのことを断固として為すために、彼は彼自身の指導者となり、いつも自分に智慧が必要であることを知り、禁欲生活を実践する準備をし、彼自身に対しためらわず鞭を用いなければならない。彼の目標を勝ち取るために、である。次のことが、この主題を本気で考えるすべての人に明らかになる。自分の中に官能におぼれる可能性も禁欲主義者になる可能性も、両方秘めた人だけが黄金の門をくぐるチャンスがあるのだ、ということである。彼は喜びをもたらしてくれるどんな存在物にも、最も微妙なものを味わい、それを高く評価することができなければならない。さらに、あらゆる楽しみを拒むことができ、そのように拒絶しても苦痛でなくならねばならない。この二重の可能性をのばしてから、彼は喜びをふるいにかけ始めることができ、土から造られた肉体人間に完全に属する喜びを意識から取り除くことを始められるようになる。その肉体人間の喜びを突っぱねたら、もっと純化された喜びのある次の領域が待っている。人が人生の真髄を見つけ出すことができるようになるのは、禁欲的な思想家の実行する方法によってではないだろう。禁欲的な人は楽しいことの中に喜びがあってはならないとし、否認することで次から次へと何もかも失う。しかしいかなる思考の方法にも縛られずに人生そのものを学んだ真の思想家は、殻の中に種が見える。そしてがさつで無頓着な人のように木の実をまるごとガリガリとかみ砕くのではなく、殻を割って取り除くことでものの本質が得られるということがわかる。感情のすべて、感覚のすべてがこのプロセスに適しており、それ以外に人の成長、人の性質の本質的部分の一部を構成し得るものはない。そのために彼の前に力、人生、熟達があり、目標達成への道の部分部分には手助けとなるものがびっしり詰まっている。それらは物質から離れた人生を認めない人々によってのみ否定される。その人たちの精神的なポジションは全く気まぐれなので、衝突したり戦ったりしても無益である。古今を通じていつでも、目に見えないものが見えるものを押しやって、非物質的なものが物質的なものを打ち負かしている。古今を通じていつでも、物質を超えたもののしるしや徴候が、物質にとらわれた人々を試し評価するために待っている。その人たちは勝手に立ち止まる場所を選び、どうすることもできない。彼らを妨げずそのままにしておこう。彼らが、それが存在するものにとって最高の活動であると信じて円輪の中をぐるぐる走るなら、そうさせておこう。

 この精神的苦痛と努力を無駄にすることへの治療法は何だろうか。それは一つだけだろうか。確かに人生にはロジックがあり、生きることを可能にする法則がある。そうでなければ混沌と狂気だけが到達可能な状態となろう。

 最初のカップ一杯の喜びを飲む時、魂は言語に絶する喜びに満たされる。その喜びは最初の、新鮮な感覚を伴っている。その人が二杯目のカップの中へ入れる一滴の毒は、もしその愚かさに固執するのなら、二倍にも三倍にもなり、ついにはカップの中身がすべて毒になるに違いない――毒は、繰り返しと増大への無知に基づく欲望である。このことはあらゆる類推から、明らかに死を意味する。子供は大人になる。不可避の代価を払うか馬鹿にならない限り、子供時代をとどめておいたり、子供の頃の喜びを再現したり強めたりできない。植物は地面に根を張り、葉を高く広げる。それから花を咲かせ、実をつける。根や葉を出すだけでずっと成長しなかったら、庭師に劣っていると思われ、捨てられてしまうに違いない。

 努力の道を選び、魂を鈍くする怠惰な眠りを拒む人は、いつも感知できるより微細な喜びを見つける。――その微細な喜びは、精妙な何かであり、単に感覚を喜ばせることがすべてである状態をますます脱して遠くかけ離れた何かである。この精妙なエッセンスは不老不死の霊薬であり、人を不死身にする。それを味わう人と、それがカップにたまるまで飲まない人は、熱望する目の前に人生が大きく広がり、世界が大きくなるのを見る。彼は愛する女性の中の魂に気づき、欲情は静寂となる。彼は思考の中に霊的真理のより微細な性質を見る。霊的真理は私たちの頭脳の仕組みを超えて作用し、さらに、彼は知的追求の堂々巡りに入り込むかわりに直観という鷲の広い背中にやすらい、澄んだ空高く舞い上がる。その空は偉大な詩人たちが洞察力を見つけた場所である。彼は自分の中に感覚の力、新鮮な空気と日光、食べ物とワイン、動くことと休むことを喜ぶ力、精妙な内なる人間の可能性、肉体や脳が死んでも死なないものを見る。芸術、音楽、光と美の喜び――人々が外形にすぎないとわかるまで繰り返すそれらの形態の中に、彼は黄金の門の栄光を見て、酔わせるものも強化するものも超えた新しい人生を見つけるためにそれをくぐり行く。肌を刺すような寒い山の空気がまさしく本物の活力で人を酔わせ、力づけるように。もし彼が不老不死の霊薬をカップの中に一滴ずつ注いできたなら、その場所の極端に強い空気を吸える強さを有し、そこに十分生きられる。それから肉体が生きようと死のうと、等しく彼はそのまま進んで行き、新しくてより微細な喜び、より完全で満足な経験を、吸って吐く一呼吸ごとに見つけるのだ。

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 怠惰は実のところ、人々の不幸の種である。アイルランドの粗野な者や世界に広く移り住んだジプシーが、とてつもなく怠惰なために堕落と貧困の中に暮らすのと同じように、粋人も同じ理由で感覚的な喜びの中に甘んじて暮らしている。上等なワインを飲み、おいしい食事を味わい、美しい女性や周囲の見事なものに、きらめくような楽しさを見聞きする――これらのことは、訓練された人にとっては教養のない人の無骨な満足や粗野な娯楽以上に良いものでもなく、最終的な目的地に達する喜びからすれば、より十分なものでもない。究極の地点というものはあり得ない。あらゆる生活の様式はどれも、一つの広大なグラデーションの連続になっているからだ。そして到達した文化の地点に立ち止まっていることに決めた人や、それ以上先へは進めないことを率直に認める人は、単に自分の怠惰の言い訳を、自由意思で表明しているのだ。もちろんジプシーは堕落と貧困の境遇に置かれていると明言できるかもしれず、実際そうであるが、ジプシーほど偉大な、最も教養ある人たちはいない。だが無知である間はそうなのだ。薄暗い心に光が差した瞬間、人のまるごと全体がそれへ向く。だからそれはより高い段階のことである。心に光が差し込むこと、光を入らせることの困難さだけがなおさら大きいことなのだ。アイルランドの粗野な者がウイスキーが大好きで飲んでいる間、倫理的・宗教的な大いなる諸法則を気にもかけない。その法則は人類を統治するとされており、人々に節制を守って生きるよう仕向ける。洗練されたグルメの人は微妙な味や最高の味わいしか気にかけない。彼は生粋の粗野な者と同じように、このような満足を超えた何かがあるという真実に気づかない。粗野な者のように彼は魂に重くのしかかる幻影に惑わされる。そして一度手に入れた、彼を楽しませる感覚的な喜びが、終わることのない繰り返しによってこの上ない満足をくれるものと思って、ついに狂気に達するまで繰り返す。大好きなワインの香りが、魂の中に入り込み毒する。彼には何の思考も残らず感覚的な願望だけが残る。彼は酒に狂って死ぬ人と同じ絶望的な状態にある。その大酒飲みが、狂気から何か良いものを得ただろうか? いいや、何もない。苦痛がついに喜びを完全に飲み込んでしまい、苦悩を終わらせるために死が介入して来る。自然の法則が重力の法則と同じくらい変えられぬものであることに無知でいつづけることへの最終的な報いにその人は苦しむ――自然の法則とは、人にじっとしていることを許さない法則である。カップ一杯の楽しみは二度は味わえない。二度目には、ほんの少しの毒か一滴のエリキサ(霊薬)か、どちらか一方がきっと入っている。

 同じ主張が知的な楽しみについてもあてはまる。同じ法則が働くのである。次のような人々がいる。同輩を超越し、抜きん出ている、その時代の精華とも言うべき知識人で、ついに破滅的な思考の回し車に食い込まれ、生来の魂の怠惰な性質に負けてしまい、自分自身を繰り返しなぐさめることでだまし始める。その後で、不毛と活力の欠如がやって来る。――中程度の生活が消え去ったちょうどその時、偉大な人々がよく入り込む、みじめで失望する状態である。若さの火、若い知識人の活力は、内的な無気力に打ち勝ち、人に思考の高みへと登らせ、精神の肺を山々の自由な空気で満たす。しかしその後、とうとう身体的な反動が始まる。脳の肉体的な構造は勢いの強さを失い、努力の緊張が緩み始める。肉体の若さは終わっているからである。今やその人は人生の階段の上で、その地点にまで上って来る人たちを待ちながら永遠に立っている仲間の偉大な気質に悩まされる。彼は耳に毒の滴がしたたり落ち、その瞬間から全意識が愚鈍さを帯びる。そして人生がさまざまな可能性を失ってしまったのではないかと恐れる。なじみ深い経験の壇上に急ぎ戻り、そこでよく知っている激情や感情の心の琴線に触れる慰めを見出す。そしてその居心地の良さにいつまでもとどまり、未知の試みを怖れ、引き続き感情の琴線に触れる、最も容易に見返りが得られることに満足するのである。このことは、彼らの中で今もなお生命が燃えていると断言できることを意味している。だがついに、グルメや大酒飲みと同じなれの果てとなる。魔法のような魅惑の力は日ごとに減り、それは失速する機械のようである。その人はより過敏に気持ちを表し、ものに固執し、カップの中に残った致命的な最後の毒を飲むことで、古い興奮をよみがえらせようと努める。それから彼は放心状態となる。あたかも狂気が飲んだくれの肉体にやって来るように、狂気が彼の魂に訪れる。人生にはもう何の意味もなくなり、やみくもに気の狂った精神障害どん底へと急ぐ。この大いに愚かなことをする劣った人は、おなじみの思考に愚鈍に執着することで、そして自分で最後のゴールだと言い張る回し車にしがみつき続けることで、他者の霊を疲れさせる。彼を取り巻く暗雲は、死そのものと変わらないくらい破滅的である。でも彼自身の偉大さを思い出すために、かつてのようにひざまずいて悲嘆を追い払い、ずっと昔に聞いた言葉を思い出すべきである。

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