黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 強い人、未知の道を見つけることを決意した人は、一歩一歩に最大の注意を払う。彼は無駄な言葉を発しない。思慮のない行動をしない。どんなに地味であろうと、またはどんなに面倒であろうと、義務や役目を怠らない。しかし、それも彼の内なる目と手と足が、彼の中で生まれている場合のことである。その道を行きたいという彼の情熱的で絶え間ない願望のために、精妙な器官だけが彼を導ける。彼は物質界を学び、使い方を知っている。しだいに彼の力は他界して行き、そして霊的世界(psychic world)を知る。でもこの世を学び、その使い方を彼は知らねばならないし、よく知らない不慣れなものをつかむまで、よく知っている人生を手放すことはしない。彼が霊的器官(psychic organs)によりこのような力を身につけ、その器官が最初に肉体の肺を使い始める時、大いなる冒険の時が始まる。ほんの少ししか必要としないが、それで十分だ! だが人間は、幼い子供がそうであるように、肉体のすべての部分となるべき霊的体(psychic body)を必要とする。人間は、幼い子供を新しい人生の素晴らしさへと駆り立てるのと同じ、深くて揺るぎない信念を必要とする。それらの条件が得られれば、彼は自ら新たな環境(atmosphere)の中で生き、新しい太陽を見上げるだろう。でもその次に、新しい体は忘れずに新しい経験を古い経験に照らし合わせるだろう。彼はまだ呼吸しているが、違うふうにである。彼は肺に空気を吸い込み、太陽から生命を吸収する。霊的世界(the psychic world)に彼は生まれ、今、霊的な空気と光(the psychic air and light)に生かされている。彼の目的地はここではない。これはただの、物質生活の精妙な再演にすぎない。同様の法則に従って、彼はそこを通過しなければならない。勉強し、学び、成長し、征服しなければならない。その間、彼の目的地は大気もなければ太陽や月もない場所であることを忘れてはいけない。

 この進歩の道筋で、その人自身が進まされていたり場所を変えていると思ってはならない。そうではない。進歩の過程の最も真実な例解は、外皮や皮膚の断面図である。人は、自分の教訓を完全に学んでしまうと、物質的人生を捨て去る。自分の教訓を完全に学んでしまうと、霊的人生(the psychic life)を捨て去る。自分の教訓を完全に学んでしまうと、瞑想的な人生あるいは崇拝の人生を捨て去る。

 すべてのものをついには捨て去って、彼は大いなる寺院に入る。そこで靴が崇拝者の足から脱ぎ捨てられると、自我や感覚の記憶が外に残される。その寺院は彼自身の純粋な神性のある場所であり、すべての苦闘を通して彼に生命を吹き込んだ中央の炎が、どんなにおぼろであろうとある場所だ。そしてこの崇高な住まいを見つけて、彼はそこが天国であると確信している。彼はまだ、あらゆる知識と力でいっぱいである。外的な人間つまり崇拝し、行動し、生きている化身は、自然と手を携えてそれ自身の道を行き、この世の野蛮な成長の素晴らしい強さを見せ、知識を含むその本能によって照らされる。それというのも、その人は最も奥の聖域、まことの寺院で、母なる自然ご自身の精妙な本質を見つけたのだ。もはやそれらの間に、何の相違も、中途半端なやり方も存在し得ない。そして今、行動と力の時が来る。最も奥の聖域で、すべてが見出されるべきである。神とその被造物、それらを食らう悪魔、人々の中の愛されている人たち、嫌われている人たちが。それらの間に違いはもはや存在しない。それから人間の魂は、強さと大胆不敵さから笑い、自分の行動が必要とされる世界へと出て行く。そしてこれらの行動を起こすのに、不安、心配、恐怖、後悔、喜びは伴わない。

 この状態はその人が肉体の中に生きている間はあり得る。生きている間、それを達成しているからである。生きているということだけが、物質界の神と真実の中で行動を起こすことができる。

 感覚の対象に囲まれている人生は、崇高な魂にとっては永久に外的な状態である。それが力強い人生、成就の人生になるのは、聖域に座す王冠を戴いた無頓着な神によって活気づけられる時だけだ。

 この状態を獲得することは、きわめて望ましい。なぜなら、この状態に入った瞬間からもう悩み、不安、疑念や躊躇がないからだ。偉大な芸術家が大胆不敵に絵を描いて、後悔するようなミスを犯すことがないのと同じように、内なる自我を形作った人は自分の人生を扱う。

 だがそれは、ある状態に入った時にである。私たちが知りたいと切に思い山々の方を見るのは、入り口の形態と門への道を見るためである。門は、重い鉄の閂が掛けられたあの「黄金の門」である。その入り口への道で人はめまいを覚え、気分が悪くなる。道がないように見え、永久に終わったかのようで、道は恐ろしい断崖に沿っており、深い海の中へと消えて行く。

 ひとたびそこを渡って道が見出されれば、その困難さは素晴らしい様を呈するはずだ。とても偉大なありさまを。消えて行くその道が急に進路を変え、断崖のきわの線は足を置くに十分な幅となり、非常に危険に見える深い海の向こう側が、いつでも浅瀬で船の渡し場となる 。同じように、それは人間性の深遠な経験すべてに起こる。最初の悲しみが心をバラバラに引き裂くと、その道は終わったように思えて、空が闇に代わる。それなのに、手探りで魂が進むにつれて、困難で一見して絶望的な道の曲がり角は過ぎ去る。

 たくさんの異なる形や人間の拷問もそうである。時に、長い期間または一生を通して、存在の道は絶え間なく打ち勝ちがたい妨害と思われるものに阻止される。悲嘆、痛み、苦悩、最愛のものや価値あるものすべてを失うことは、怖がる魂の面前で起こり、つねに魂を妨害する。誰が妨害物をそこへ置いたのだろう? その説明は狂信家が劇で縮小して描写している。つまり、神が悪魔に、究極の善のために神の被造物たちをひどく苦しめさせるのだ! そんな究極の善がいつ達成するであろう。この描写に含まれる概念は、終わり、目標を前提としている。そんなものは、何もない。私たちの誰もがそれに問題なく同意することができる。人間の観察、理性、思考、知力、本能が人生の謎の把握に達することができる限り、得られたすべてのデータが、道は無限であり、永遠が明滅することはあり得ず、怠けている魂によって永遠が100万年に変えられることはあり得ないことを示している。

 個別に、あるいは全体として人間を調べると、人には明らかに二重の本質がある。私は大まかに言って、さまざまの哲学の学派がその理論に従って、人を分断し、さらに細別することを、よく認識している。私が言っているのはつまり、二つの感情の激流が人の性質に押し寄せ、二つの大きなエネルギーが人の人生を導くということである。一つは人を動物にし、もう一つは人を神にする。地上の野獣は、神の力を動物の力に服従させる人間ほどには残忍ではない。これは方向の問題だ。なぜなら二重の性質の力全部が同時に一方向に使われるのである。純粋で単純な動物は本能だけに従い、自分の喜ぶ好みを満たす以上のことを望まない。そして喜びや苦しみを自分にもたらす者でない限り、他の存在のことはほとんど考えない。動物は、残酷な抽象的愛や、自分たち自身の満足がある人間の堕落の傾向について何も知らない。したがって、獣になる人は自然の獣の百万倍の生命をつかみ、純粋な動物には十分に無垢な楽しみであるものが、随意の道徳基準に妨げられずにその人の悪徳となる。その喜びは習慣的に満たされているからだ。さらに、彼は自分の存在の神聖な力をすべてこの方向に変え、魂を感覚の奴隷にすることによって堕落させる。損なわれて偽装された神は獣性に仕え、獣性を養う。

 だから、状況を変えることができないかどうか、熟考せよ。人間はこの異様な光景が見られる国の王である。彼は獣性に神の場所を奪い取ることを許す。なぜなら、当座はその獣性は気まぐれな国王の夢想を最も喜ばせるからである。これは必ずしも長く持ちこたえられるとは限らない。どうして長く続くというのか。変化と、喜びと苦痛の間の揺れ動きと、長く続く喜ばしい肉体的生活への望みのせいで、激しい苦しみが動物的習慣に来るまでの間のことである。そして彼の奉仕能力の中の神は、肉体的生活を喜びの強烈さ、つまり珍しい、官能的な、美の喜びでいっぱいにすることによって、このすべてに一千倍の苦しみを加える。苦痛はとても強烈なため、人はどこでそれが終わり、いつ喜びが始まるかわからない。神が仕える限り、獣性の生命は長くなり、ますます価値が高まる。だが王に宮殿の外観を変える決心をさせよ。そして獣性を強制的に権威の座から追放し、神を神の場所に戻させよ。

 ああ、宮殿に訪れる深い平和! すべてが本当に変わる。もう個人的な切望や情欲の熱狂もなく、何の反抗も苦悩もなく、喜びへの渇望や苦痛への恐れもない。それは嵐の海に訪れる大いなる静けさのようだ。それは焼けつく地面に降る、夏の優しい雨のようだ。それは見知らぬ森の、滅入るような乾燥した迷路のさなかにある深い淵のようだ。

 しかし、さらにそれ以上のことがある。人間は中に神があるので動物以上であるだけでなく、人間の中には動物があるので神以上のものなのである。

 一度獣性を下位であるその正当な場所へ押しやると、君はこれまであるとは思わず知りもしなかった偉大な力を持っていることがわかる。しもべとしての神は獣性の喜びに千倍を加える。しもべとしての獣性は神の力に千倍を加える。そしてそれが結合して、人の中でこれら二つの力が正しい関係になると、人は強い王として立ち、手を上げて黄金の門の閂を持ち上げることができる。これらの力が不適当な関係であれば、王は快楽にふける王位について、力がなく、その威厳は無駄になる。神性のない動物性は、少なくとも平和は知っており、悪徳と絶望によってかき乱されることはない。

 それが全秘訣である。それが人を強く、パワフルにし、その手に天と地をつかむことを可能にする。それをたやすくやり遂げられると思うな。宗教家や有徳の人がそうするのだという考えにだまされるな! そうではない。その人たちは規範、ルーティン、決まりを満たすこと以上のことはせず、それにより獣性を抑えているのだ。(つづく)

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 宗教はさまざまな非常に単純な理由から、人が道を進むのを妨げ、前進の妨害となる。第一にそれは善と悪を区別するという致命的な間違いをする。自然界はこのような区別をしない。そして我々に宗教を尊重させる道徳的・社会的法則は、一時的なものとして、私たち自身の特別な様式と存在の形態のようなものとして、蟻や蜂の道徳的・社会的法則として、宗教を尊重させるのだ。これらのことが最終的に現れ、そして永久にこれらを忘れる状態から、私たちは抜け出す。このことを見つけるのはたやすい。なぜかと言うと、広く考える習慣のある人や知性のある人は、他の人々の間に住む時、自分の生活の基準をいくらか変える必要かある。これらの他の人々は、その人々の間にいるよそ者から見ると、彼ら自身の深く根づいた宗教と遺伝的な確信を持っており、よそ者である彼はそれらに背くことはできない。心があわれなほど狭く、思考力がないのでない限り、彼にはその人々の法則の形式が自分のと同じくらい良いものだとわかる。それならば、行動を徐々にそのルールに合わせることに甘んじる以外、どうすることができようか。さらに、その人々の間に何年も住まうならば、違いという鋭い刃は磨耗し、どこまでが彼らの信仰でどこからが自分の信仰か、彼はついには忘れてしまう。しかし誰をも害さず、公正さを保ったならば、彼の側の人々は彼が悪いことをしたなどと言えようか。

 私は法と秩序を非難しているのではないし、これらのことを軽率に嫌悪して言うのではない。法と秩序はそれらがあるべき場所で、蜜蜂の巣の生活を支配する法体系がその成功した行動にあるのと同じくらい重要であり、必要である。指摘したいことは、法と秩序そのものは非常に一時的で不十分なものだということだ。人の魂はつかの間の住居であるこの世を去り、法と秩序の概念は付き従って行かない。もし魂が強ければ、すべての人が死ぬことによって自分を見守っていたのが誰なのか知るのと同じように、死は真の存在と本当の人生を手に入れるエクスタシーとなる。もし魂が弱いと、気を失って消えて行き、新たな人生の最初の流入によって圧倒されてしまう。

 私は明言しすぎるだろうか? そう言うのは、今この時に活動的な人生を生きている人たちだけ、死んだ人と死にかけている人をそばで見ていなかった人たちだけ、戦場を歩かず臨終で苦しむ人の顔をのぞき込んだことのない人たちだけであろう。強い人は自分の体から喜んで出て行く。

 なぜそうなのか? 彼はもう抑制されず、躊躇して震えることもないからである。死の不思議な瞬間に、彼は与えられた解放を経験していた。そして突然の歓喜の情熱で、それが解放であると悟る。かつて、彼はこれを確信していたが、自分自身と自分の体を支配する力を持っていただろうから、世界を支配する人、偉大な聖者だったであろう。平凡な人生の鎖からのその解放は、死によるのと同じくらい容易に人生の間に得られる。人に、別の人の体か、もしくは千人もの人々の体を見るのと同じ感情で自分の体を見るのを可能とするためには、十分に深い信念が必要なだけである。戦場を考えてみると、すべての苦しめる人の苦しみを理解することは不可能である。ならばなぜ、君自身の苦しみを他の人の苦しみよりもはっきり理解するのだろうか? 全体を集めて、それを個人の人生より広い視点から見よ。すると君自身の肉体の傷は、君の限界の弱みであると実際に感じる。霊的に成長した人は、他の人の痛みを自分のもののようにはっきりと感じ、そう望む強さがあれば自分自身の痛みは少しも感じない。真剣に霊的な状態を調べたすべての人が、これは事実であると知っており、霊的な成長に従って多かれ少なかれ見られることだ。多くの場合、サイキックな人は他の人の痛みより自分自身の痛みのほうを、より強く、より意識的に感じている。しかし、それはおそらく成長が見られるまで、ある地点に達するまでのことである。それは、完全な平穏と活気ある行動の意識のすれすれのところへと人を駆り立てる力である。それは、人をそれ以上先へ運ぶことはできない。だがもしその人がそのすれすれの端に到達したならば、自分自身の自我のつまらない支配から自由になる。それは最初の大きな解放である。見よ、私たちの狭く限られた経験と同情から来る苦しみを。私たちは完全にひとりで、単独の一個人で、世界の中でごく小さな存在だ。どんな幸運を期待できようか。世界の偉大な人生が突入し、私たちは各瞬間に危険にさらされている。それは私たちを圧倒するか、完全に破壊しさえするだろう。それに対する防衛策はない。それに対抗する軍隊を設置することはできない。この人生で一人一人が他のすべての人と戦い、同じ軍旗の下に二人の人が団結し得ないからだ。毎時、戦うこの恐ろしい危険から逃れる道がただ一つだけある。体の向きを変え、諸エネルギーに対抗するのではなく、それらと一つになれ。母なる自然と一つになり、彼女の道を楽々と進め。植物が雨と風に面するのと同じように、人生の出来事に憤慨したり抗ったりするな。すると突然、驚いたことに君は、取っておいて大いなる戦いで使うための力と時間を持っていることに気がつくだろう。誰もが戦わなければならない不可避の戦闘で、である。その戦闘は、内なる戦いであり、自分自身を征服する戦いだ。

 ある人は、それは自分自身を破壊することだと言うかもしれない。なぜか? なぜならば、素晴らしい生きる現実性を最初に味わった時から、彼はますます個別の自我を忘れてゆくからである。もう彼は自分自身のために戦ったり、自分自身のために他者の力に抗して闘争したりしない。もう自分自身を守ったり助長したりしない。しかし彼が幸福に対しこのように無関心である時、個別の自我は、人跡未踏の森林の木や、大草原の草と同じように、より強く丈夫に成長する。彼はそうであるかどうかには無関心である。唯一そうである場合に、彼はすぐれた道具を手元に用意している。そして彼の無関心の完全さに比例して、彼の個人的な自我は強く美しい。これは容易に見られる。庭園の花は完全に放置されたなら、それ自身の単なるまがいものに劣化してしまう。植物は最高の極みにまで栽培されなければならず、庭師の全技能によって恩恵を受けなければならない。そうでなければ、それは全く粗野で、野生で、大地と空からのみ養われるのである。誰が中間的状態を気にかけるであろうか。すべての薔薇のつぼみに病害のある放置された薔薇園に、どんな価値や強みがあろうか。病気にかかった、または矮小な花は、気まぐれな条件の変化に起因することが確実であり、これまで不自然な生活の中で植物にとって神意であった人間が、放ったらかしにした結果である。けれども、吹きさらしの平原にひなぎくの高く育つ場所があり、その中に、このような手入れされないひなぎくが生じるのを月が見ている。だから、最大限にまで手入れをし栽培せよ。君の庭園の土地をわずかにも手入れし忘れるな。そこに育つ最小の植物も忘れるな。愚かな見せかけをしようとしたり、君が忘れる準備のできている空想の中で愚かな間違いをするな。さらに、植物をその場しのぎの世話のひどい結果にさらすな。今日、水やりをされて明日は忘れられる植物は、だんだん小さくなるか腐るに違いない。植物は助けを求めていないが自然界そのものがその強さを直ちに測り、死んで再形成されたり、枝が空をふさぐ大きな木に成長したりする。しかし、狂信家やある哲学者たちのように、間違ってはならない。君自身のどの部分も、それが君自身であると知っている間は、見捨てておろそかにするな。その土地が庭師のものであるうちは、植物を育てるのは庭師の仕事である。しかしある日、別の国からか死そのものから召されて、その時彼はもう庭師ではなく、仕事は終わっており、そのような種類の義務をもう全く持たない。それから彼の好きな植物はだめになって死に、繊細な植物は地と一つになる。けれどもすぐに、熱心な自然は自らのために場所を求め、そこを生い茂る草や巨大な雑草で覆ったり、若木を育てて枝が地面を日陰にするほど大きくする。忠告しよう。君が完全に亡くなり、自然へと戻り、野の花が生え風の吹き抜ける平原となるまで、君の庭園を極限まで世話せよ。そして君はその道を通り抜ければ、何が起こったとしても悲しんだり有頂天になったりしないだろう。それは、君がこう言えるからだ。「私は岩場です。私は大木です。私は強いひなぎくです」。その場所はかつて君の薔薇の木が育った所で、そこに花が咲いているかどうかには君は無頓着であろう。君があえて薔薇の花々を放ったらかしにする前に、何らかの目的で星を学ぶことを知ったに違いない。そしてその花々の放つ香りで大気を満たすことを怠ったのだ。君は道のない大気を通して君の道を知らねばならない。その道は、そこから清いエーテルへと通じている。君は黄金の門の掛け金を外す準備ができていなければならない。

 私は言う。養え、そして何も無視するな。ただ覚えておけ、世話をし水やりをする間ずっと、君は母なる自然の仕事をあつかましくも奪っているのだ。彼女の仕事を奪ってしまったため、彼女が君を罰する力がない時点に達するまで君はその仕事を遂行しなければならない。その時点で君は彼女を恐れず、彼女のものであったものを勇敢な様子で彼女へ返すことができる。偉大な母である彼女は袖で隠して笑い、笑いながらひそかに君を見ており、もし君が彼女にそのすきを与え、怠け者になり、いい加減さを増すならば、無慈悲にも君の仕事全体をゴミの中へ捨てる用意ができている。子供は人間の父親であるという意味で、怠け者は狂人の父親である。母なる自然は巨大な手を彼の上に置き、構造全体を壊した。庭師とその薔薇の木は同じように破壊され、母なる自然の活動を生み出した大嵐に襲われる。彼らは上に積もった砂が払われるまで無力であり、疲れ果てた荒野に埋められている。この砂漠の一点から彼女(自然)は創造をするだろう。そして彼女は思い切って彼女に面と向かう人の灰を使用するだろう、その人の植物の枯れた葉とは無関係に。彼女(自然)は彼の体、魂、霊をすべて同じように要求する。

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5章 強さの秘訣 Ⅰ

 前進する強さが、自分の道を選んだ人に最初に必要なものである。これはどこにあるだろうか? 見回すと、他の人たちがどこで自分の強さを獲得しているかを知るのは難しくない。その源は、深い信念である。この大いなる道徳力は、たとえ彼がひ弱であろうと、行って征服することを可能にする、人間の自然な人生の中で生まれる。何を征服するのだろうか? 大陸ではなく、世界でもなく、彼自身をである。この至高の勝利によって、全体への入口が得られる。そこでは、努力により打ち勝って手に入れるだろうものはすべて、すぐに彼のものではなく、彼自身になる。

 甲冑を身に着けて戦闘へ出発すること、戦いに急ぐあまり死の危険を冒すことは、容易なことだ。世界の騒音の真ん中でじっとしていること、体の動揺の中で平静を保つこと。感覚と欲望の千の叫び声に囲まれて沈黙を保つこと、それからすべての甲冑をはぎ取り、急ぎも興奮もせずに致命的な自我の蛇を捕え、それを殺すことは、容易なことではない。けれどもそれは為さねばならないことである。そしてそれは、敵が沈黙に困惑させられる平衡の時にだけ、為され得る。

 しかし、この最高の瞬間には、戦場に必要な英雄がいないというような強さが必要である。偉大な戦士は、自分の動機の正しさと、やり方の公正さについての深い信念で満たされていなければならない。自分自身と戦って、その戦いに勝つ人は、次のことを知っている時にだけ勝つことができる。つまり、その戦いで彼はする価値のある一つのことをしていて、それをすることで彼は彼に仕える者として天国と地獄に打ち勝っている、ということを。そうだ、彼はその両方の上に立つ。彼は末長く約束された報酬として喜びのやって来る天国を必要としない。彼は罪を罰する苦しみが待ち構えている地獄を恐れない。彼は打ち勝ち、自分自身の中にいる蛇を、これを最後と殺したのだ。絶えることのない接触の欲望と、永遠に続く喜びと苦痛の探求によりあちこちへ向かう蛇を。未来についてどう考えようとも、ひとたび本当に勝利した彼は二度と震えたり、歓喜を増大させたりすることはあり得ない。彼の存在の唯一の証明と思えた、燃え立つような感覚は、もはや彼のものではない。それならば彼はどうやって自分が生きているとわかるのだろうか? 論証によってのみ、わかるのである。だがそれについて論証することに、彼はそもそも関心がない。それゆえに彼にとって平和がある。そしてその平和の中に、自分が切望した力を見つけるだろう。その次に彼は、山々を動かせるあの信仰とは何であるかを知るだろう。

 このことを考察する上で、すべての非常に苦しむ人たちが学ぶ、ある確かな教訓が、私たちにとって大いに役に立つだろう。激しい苦痛の中で、苦痛とその正反対の喜びとを区別できない地点に達する。それは本当であるが、少しの人しかその遠くにある地点の苦しみを受ける精神力や英雄的資質を持っていない。他の道に沿ってそこへ到達することと同じくらい、それは困難である。選ばれた少数の人だけが、正反対の側へ旅することを可能とする喜びというものを受容する、巨人のような力を持つ。しかしほとんどの人は、喜んで、そして喜びの奴隷となるのがやっとだ。けれども人は、紛れもなく自分の中に、大いなる道程に必要となる英雄的資質を持っている。そうでなければ、どうして責め苦のさ中に、受難者たちが微笑んだであろうか。そうでなければ、どうして喜びのために生きる大罪人が、ついに彼自身の内部に神からの啓示を感じられるであろうか。

 これらの事例の両方とも、道を見いだすことから可能性が生じたのである。しかし多くの場合、その可能性は突然の驚きにバランスを失い、台無しになる。受難者は苦しみへの愛着を身につけて、英雄の受難という概念の中で生きる。罪人は美徳の概念で盲目となり、美徳を目標として、ねらいとして、その中に神があるものとして、崇める。ところが、それが神であり得るのは、美徳と同様に悪徳も包含する、果てしない全体の一部分としてだけである。一つである無限のものを、分割することができようか? 海から一杯の水を汲んで、その水は海に含まれていたと明言するのと同じくらい、あらゆる対象を神のものとするのは筋が通ったことだ。海を分割することはできない。海水は海の一部であり、そうでなくてはならない。でもだからと言って、君は大海を手に持ってはいない。人々はカップの中に無限性を入れる個人的な力、神聖な概念を決まり文句の中に表現する個人的な力を、熱心に望む。そうすることで、その力を持っていると空想するために、である。これらは、立ち上がって黄金の門へ近づいて行くことができない人たちにすぎない。人生の大いなる息が彼らを混乱させるのだ。彼らはその門がとても偉大であることを知る恐怖に打撃を受ける。偶像崇拝者は心の中に偶像を据え、いつもその像の前にろうそくを輝かせる。たとえその偶像を崇拝しおじぎをするとしても、偶像はその人自身であり、その人はその概念を喜ぶ。どれほど多くの、有徳な、宗教的人々の中に、この同じ状態が存在することか。魂の休息の中で、家の守り神の前にランプの火は燃えている。問題はその崇拝者にあり、その人に支配されている。人々はこれらのドグマ、これらの道徳律、これらの原理、彼らの家の守り神であり個人的な偶像である信仰のあり方に、甚だしく固執する。それらは無限のものだけをうやまって不断の炎を燃やすよう命じ、そして君を見捨てるのだ。君の抗議を軽蔑するそれらの態度がどんなものであろうと、それ自体はずきずきと痛む空虚感を残す。なぜならば、人の気高い魂、私たち皆の内に潜む王が、家を守る偶像(household idol)は、いつ何どきでも倒され破壊されるかもしれないとよくわかっているからである。その時に結末はなく、いかなる本当の、そして完全な人生もない。さらに彼は、保有しているものは不変な人生の法則によってのみ一時的に保持することができることも忘れて、自分の所有に満足している。彼は無限が彼の唯一の家であることを忘れている──偶像だけが彼の唯一の神であり得る。そのことで彼は住むところのないように感じる。だが彼自身の特別な偶像に捧げる犠牲の中で、つかの間の休息所がある。そしてこのために彼は情熱的にそれにしがみついている。

 ゆっくりとでも大きな孤独に向き合う勇気を持っている人はほとんどいない。その大きな孤独は、自分たち自身の外部にあり、自分たちを象徴する人物に執着する間はそこにあるはずで、その「私」は彼らにとって世界の中心であり、すべての人生の原因である。神への憧れの中に、彼らは一者の存在の理由を見つける。感覚─肉体への情欲と、楽しむ世界への願望の中に、彼らにとっての宇宙の原因がある。これらの信仰は表面の下のたいへん深くに隠されているかもしれず、実際にはほとんど接近できない。しかしそれらの信仰がそこにあるという事実には、人が自分自身をまっすぐ立たせておける理由がある。その人にとって自分自身は無限であり神である。彼はカップの中に大海を持っている。この錯覚により彼は人生を喜びに変え、苦しさを嬉しさにするエゴイズムを育てる。この深いエゴイズムが、喜びと苦痛の存在する真の原因であり、おおもとである。人間がこれら二つの間を揺れ動かない限り、そして自分が存在するという感覚を絶え間なく思い起こさない限り、彼はそのことを忘れるだろう。そしてこの事実には、「なぜ人間は自分の不快感のために苦痛を作り出すのか?」という質問に対する答え全体がある。

 不思議な、そして神秘的な事実が今のところまだ解明されていない。そして自分自身をだましている人間は、ただ自然界の意味を逆にくみ取り、生命の意味に死という言葉をあてがっている。その人は本当に自分の中に無限のものを持っており、大海は実際にカップの中にあり、それは否定できない真実である。しかしそれは、カップが全く存在しない物であるという理由でのみ、真実である。カップは単に無限の体験であり、永続性を持たず、いかなる場合にもすぐに粉々に打ち砕かれる。それはその人の人格の、四方の壁に狭く囲まれた室内のための現実性および永続性を要求することであって、その人は長く引き延ばされた一連の不運な出来事に自分を陥れるという大間違いを犯し、好きな形の感覚の存在を絶えず強める。喜びと苦しみは、彼がその一部であり住みかとする大海よりも、自分にとって現実のものとなる。彼は感じられるこれらの四方の壁に痛ましくぶつかり続け、永久にそうし続け、選んだ牢獄の中でちっぽけな自我は揺れ動き続ける。

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 人の魂にとって何よりもまず必要なのは、本当の人生を見つけるための大きな努力に従事することであるが、そのことは子供が最初に体の機能を欲するのと同じである。子供は立つことができなければならない。魂の中の立ち上がる力、平衡の力、集中の力、直立の力は、際立った特質であることは明白だ。この特質を最も容易に示す言葉は「自信」である。

 人生とその変化のただ中で、じっと動かぬままでいること、そして選んだ地点にしっかりと立っていることは、自分自身と自分の運命に自信がある人にのみ、成し遂げられる偉業だ。さもなければ人生のせき立てるやり方が、人々の氾濫の急襲が、思考の大洪水が、その人を必然的に運び去り、偉大な事業を始めることが可能な意識の置き場所を失ってしまうだろう。このことは意識的に為さ「なければならない」し、外部からの圧力なしで為さねばならない、生まれたばかりの人間の行為なのだ。この世の偉大な人たちはみな、この自信を持っており、全世界の中の堅固な地点にしっかりと立った。この場所は必然的に人それぞれに違っている。それぞれがそれぞれの地と天を見つけなければならない。

 私たちには苦痛を和らげたいという本能的な願望があるが、他のあらゆることと同様、外面的に働きかける。単純に苦痛を軽減し、さらにそれを続け、最初に選んだ要塞から追い払うと、勢いを増した苦痛がまたどこか別の場所に現れるのだ。物質界のレベルで、根気強く効果的に努力し、ようやく苦痛を追い払ったとしても、誰にも触れることのできない精神や感情のレベルに再び現れる。そのことは、感覚のさまざまな段階を結びつける人たちと、付加的な啓示により人生を見る人たちには、たいへんたやすく見て取れる。人々は習慣的に、これらの感情のさまざまな形体を、現に別々のものとみなす。ところが実は明らかに、それらは一つの中心、人格の一点の、異なる側面にすぎない。もしその中心に現れるもの、つまり生命の源が、ある妨害となる行為を求め、そしてその結果、苦痛が生じたとすると、そのようにして要塞から追いやられた力は別の要塞を見つけ出す。それを追い出すことはできない。さらに、感動や苦しみを引き起こす人間生活のすべての融合は、感動そのもの・苦しみそのものの目的と使用のためにあるだけでなく、楽しみのためにも存在する。両方とも人の中に住まうことであり、両方とも現れる権利を要求する。すばらしくデリケートな人体の骨格のメカニズムは、最もかすかな接触に反応するために作り上げられている。人間関係の並外れた複雑さは、人を進化させる。言ってみれば、それはこれら二人の敵対者の魂の満足のためなのだ。

 苦痛と喜びとは、はっきり違った別々のものであり、ちょうど二つの性別と同じである。そして結合し、二つが一つになる中で、歓喜と深い感情と深遠な平穏が得られる。そこにあるのは男性でも女性でもなく、苦痛でも喜びでもなく、人の内なる際立った神であり、それから人生は本当のものになる。

 このような方法でその事について述べると、安全柵の向こうから反駁されていない自らの主張を述べる、多すぎる数の独断主義者たちに花を添えてしまうかもしれない。けれどもそれは、科学者の新しい方向への努力の記録が独断主義であるときのみ、独断主義である。もし黄金の門の存在が真実であると証明できず、ただの風変わりな夢想家の幻想ではないと証明できないならば、それらについて語ることに少しも価値はない。一九世紀に厳しい現実や、既存の基準に合った議論だけが人の心に訴えられた。そして多くのことが、より良くなった。私たちが前に向かって進む人生が、だんだん真の、現実のものになっていかないのなら、人生に価値はなく、それを追い求めるのは時間のむだである。現実性は人の最高に必要なものであり、すべての危難に際して、どんな代償を払ってでも必要とするものである。そうあらしめよ。そうする人の正当性を疑う者はいない。ならば、現実性を探しに行こう。

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 人の本質とその傾向について注意深く考察したならば、成長していくはっきりとした二つの方向があるのがわかるだろう。人は木のように地中に根を伸ばし、同時に天に向かって若い枝を伸ばす。個人の中心の点から外へ向かうこれらの二つの道筋は、自分にとってはっきりしており、明確でわかりやすい。あの人は良くこの人は悪い、と人は言う。しかし類推や観察や経験によれば、人は一本の直線のようなものではない。その人が、またはその人の人生が、あるいは進歩向上が、成長が、または何と呼ぼうともそれが、ただ一つのまっすぐの道だけを辿ることによるふりをするのは、狂信者である。巨大な難問の問いかけ全体が、たいへんたやすく解明されるだろう。しかし伝道師が断言するほど、落ちぶれることはたやすいことではない。落ちぶれ駄目になることは、黄金の門に至る道を見つけるのと同じくらい困難なタスクなのだ! 人は感覚の海ーーつまり楽しみーーに自分を難破させるかもしれず、その人の全性質の品性を落とすかもしれない。ーーだが完全な悪魔になるほど落ちてはいない。まだ神の光の火花がその人の中にあるからである。彼は破滅に至る広い道を行こうと決め、勇ましくその道に入り、全速力で進む。だがすぐにある考えがふと浮かんでギクッとし、足を止められる。そのある考えとは、彼自身の性向であり、あまたあるエネルギーの発散の中の、彼の自我の中心から来る放射物である。それが奇妙に発達して、健常な行動の邪魔をする時、彼の肉体と同様に彼は苦しむ。自分が苦痛を作り出し、自分で作ったものと戦うこととなった。まるで、この激論を交わす戦いが、肉体の痛みに効かない塗り薬を塗っているかのように見える。もし、ふだん心を占めているよりも高い見地から人間を考えたなら、それとは違うふうに見える。人が、願望に従って外界に現れた形をまとった、強力な意識とみなされるなら、肉体の痛みはそれらの願望の形が損なわれたことに起因するのは明らかとなる。たぶん人のこの概念は、根拠がなさすぎるし、証拠の入手できない未知の場所へメンタルが飛び込むには大きすぎて無理だということが、多くの心(マインド)にとってはっきりしてくるだろう。しかし心がこの見地から人生を観察するのに慣れてくると、すぐに他のどんな見方にも満足できなくなる。純粋に物質主義的な観察者にはどうしようもないほど絡まってしまったように見える存在という名の糸は、もつれをほどかれまっすぐになる。その結果、新たな理解が全世界に光明を投ずる。苦痛と喜びとを意のままに負わせる勝手気ままで無慈悲な創造主は、人生の舞台から姿を消す。それでよいのだ。そんな創造主は本当に無用な登場人物であり、さらに言えば周りから独断家に支えてもらわなければ舞台の上を役者の歩き方で歩くことすらできない、ただのワラ細工の人形なのだから。確かにこの世のある町か別の町に住むのと同じ原理に基づいて、人はこの世に生まれる。そのように多すぎるくらい言われているとすれば、なぜ自分はそうではないのか尋ねても差し支えがなかろう。物質主義者は賛成にも反対にも心を動かされないし、そのどちらも法廷では重要ではない。しかし私は議論の利益となるように、このことを断言するーー真剣に考えてみるために懐疑論者の正式な説に、たった一度でも戻ってみる人は誰もいなかったと。そうすることは、再び乳児の産着を着るようなことらしい。

 では、議論を進める上で、人は自分自身の創造主である強力な意識であり、自分自身の中に潜在的にすべての生命があり、最高の目標さえもあるということを認めて、彼自身が彼の苦しみをもたらすと考えよう。

 苦痛が不均衡な成長の結果であり、奇形な発達の結果であり、さまざまの点で欠陥のある前進の結果であるならば、人はそのことから教訓を学び、成長のために(幸福と)同程度に苦痛を受け取るべきではないだろうか。

 私には、この問いに対する答えがまるで、それこそが人類の学んでいる真の教訓であるように思われる。たぶん、人を無秩序の中の偶然の産物とみなすにせよ、または天国か地獄へ急ぐ暴君の馬車の、冷酷な車輪に縛りつけられた魂とみなすにせよ、その声明はありきたりな思考からしてみれば大胆すぎるように見えるだろう。だがこのような考え方は結局、最終的な決定者は両親であり、実際に両親こそが自分の世界の神か悪魔だと思っている子供と同じ考え方である。子供は育つにつれ、それは単純に成人かどうかの問題であることと、自分も他の人と同じ生物の中の王であることを知って、この考えを捨てる。

 それが人類である。己れの世界の王様、己れの運命の決定者である。そしてそれを否定する人はいない。神意と運命こそが決定者だと言う人は、立ち止まってよく考えたことがないのだ。

 逃れられぬものである運命は、実に人類のために、そして個性のために存在する。しかし、誰が自分自身に救われることを運命づけることができるのか? 運命づけられたことに喜んだり苦しめられたりする人間以外に、運命を定める者の存在がいるという手がかりは、天にも地にもない。私たちは自分自身の性質をほんの少ししか知らない。私たちは自分の神聖な役割にまるで気づかない。だからどのくらい多く、あるいはどのくらい少なく、自分に運命を負わせているのかを知ることはまだできない。だが、ともかくこのことは知っているーー証明できる知覚の及ぶ範囲には、運命を定める者の存在の手がかりは見つかっていないことを。しかし、もし周りの人生にほんの少しでも注意を向け、人が自分の未来のために行動するのを見るならば、私たちはすぐにこのパワーに、効力のある現実の力として気づく。たとえ私たちの見える範囲が非常に限られていても、それは目に見える。

 全くの俗人は、人生に関して事実上、明らかに最良の観察者であり思想家である。なぜなら、いかなる先入観によっても盲目にされていないからである。その人は、種をまいた人が刈り取るであろうことを常に発見し信じるだろう。そしてよく考えると次のことはとても明白な事実である。より広い目で見てみると、あらゆる人生を含め人類に、わざとつきまとうように見える恐ろしいネメシス(訳注:因果応報の女神)は、喜びのただ中に厳然と苦痛をもたらす。偉大なギリシアの詩人たちは、この苦痛の出現をはっきりと見て、その観察を記録したものを、より若くより見る目のない、ひどい観察者である私たちにくれた。西洋のいたる所で育った物質主義の人間が、年上の詩人ーー昔の詩人の手助けなしで、人生にこの厳しい要素があることを、おのずと悟ったとは考えられない。ちなみに、このことから古典の研究のある明確な価値に気づくかもしれないーー素晴らしい古代人たちが詩に表した、人生についての偉大な概念と事実は、彼らの文学から完全には失われていないだろうことを。確かに、世界は再び栄え、過去と比べてより偉大な思考とより深い発見が、未来の全盛期の人たちの栄光となるであろう。だが、遠い未来の時代が来るまでは、私たちの失う宝物はあまりに高価すぎて値がつけられないだろう。

 一見したところ明確にこの概念のあり方を否定するように見える、この問題点の一局面がある。それは、明らかに純粋に肉体が口のきけない存在たち、つまり幼い子供、白痴、動物たちの苦しみであり、その存在たちが苦しみを切り抜けるために、いかなる種類の知識でもそれから得られる力を、必死で求めることである。

 これに関し心の中に起こるであろう窮境は、肉体と魂の分離という擁護の余地のない概念から生じる。体と頭は二人組の相棒であり、互いに影響し合い手を取り合ってともに生きるということが、物質的な人生だけを見る人たち(および特に肉体を診る医者)のすべてに、真実と思われている。彼らはそれ以上、根拠を確かめようとはしないため、何も知ることがない。頭と体は明らかに、手や足と同じような装置にすぎないことを忘れている。これらの構造のすべてを使うことの裏に、内的人間つまり魂がある。そしてこのことは、私たちが知るすべての存在に関して本当であるのと同じように、人間自身に関してもどうやら本当らしい。存在するものの魂のものさし上に、因果律が終わるまたは終わることのできる一点を見つけることはできない。なまくらな牡蠣にはその不活発な人生を過ごすことを選ばせる何かがあるはずである。つまり背後にある魂以外には何も、牡蠣にそうさせることはできない。いったいそれ以外にどこで、どうしていられるだろうか? 何らかの名で呼ばれる、とてもあり得ない創造主が介入しない限り、そうである。

 それはなぜかと言うと、人は責任を受け入れるか負うことに対し、とても怠惰でやる気がないために、このその場しのぎのはかない創造主を頼るからである。それは確かにはかない創造主だ。私たちの間に居場所を見出す特別な頭脳の働きがある間だけしか、居続けることができないからだ。人がこの偽の精神生活から落後する時、必然的に魔法のランプもそれから呪文で呼び出した援助という快い幻影も共に後に残される。それは、他の感覚には全く似ていない、むき出しのままの感覚であるに違いない。同様に、肉と血と権力という非現実的な幽霊を受け入れず拒むことで、この嫌な経験から自分自身を救えるようである。人は創造主の両肩に、自分が罪を犯す可能性と救われる可能性の両方への義務を負わせたがるが、それを負うべきは自分の真の生命、真の意識だ。このように自分自身を満足させるのは、お粗末な創造主だし、その人は操り人形の世界に喜び、糸で引っ張られて楽しんでいるのだ。このようなことを楽しめるとしたら、その人はまだ子供のままであるに違いない。なんと言っても、それはその通りである。私たちの内なる神は子供のままであって、その高い地位を認知することを拒むのである。もし本当に人の魂が、肉体に従って成長の法則、衰弱の法則、再生の法則に支配されているならば、盲目的であっても不思議ではない。しかし明らかにそうではない。人の魂は、形態や体を与える生命の指示下にあり、魂そのものはこれらの事に影響されない。ーー清らかで純粋な炎がともされる所ならどこででも燃える生命の、指示下にである。魂は時間により変化したり影響されることはあり得ず、成長と衰退の道理上、先輩である。魂は神の唯一の玉座である原初の場所にある。その場所は存在の中心点であり、そこには人間の心臓のまん中にあるのと同じ生命の恒久不変の地点がある。対等な成長ーー最初は認識され、それから放射状に広がる多くの経験の線の対等な成長ーーにより、人間はついに黄金の門へ到達し、掛け金を外すことができるようになる。進歩の過程とは、自分自身の中の神を徐々に認識することだ。神性が意識的にその正しい栄光へと戻った時、ゴールに到達したのである。

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4章 苦痛の意義 Ⅰ

 深く生命の本質をのぞくと、その本質から人の人生を暗くしようと苦痛がやって来る。苦痛という名の魔女は、いつでも入口のところにいて、彼女の背後には絶望が立っている。

 このやつれた姿の二人は何者で、なぜ私たちを絶えず追って来ることを許されたのだろう?

 それを許したのは私たち自身だ。私たちが体に行動することを許可したり指示したりするのと同じように、あの魔女たちに絶えず追って来るよう指示したのだ。しかも、無意識に。だが科学的な実験と調査により、私たちは肉体の生活についていろいろなことを知り、そして霊的生活に関しても似た方法を用いて多くの成果を得られるかのように思っている。

 苦痛が生じ、弱まり、粉々に砕け、滅する。十分に離れた見地から見ると、苦痛は薬に、ナイフに、武器に、毒に、代わるがわる変わって見えてくる。それは道具である。どうやら使われるものであるようだ。知りたいのは、それを使う者は誰かということだ。私たち自身の中のどの部分が、休息することを嫌って、この道具があるかと尋ね求めるのだろうか?

 薬は医者に使われ、ナイフは外科医に使われる。しかし破壊の兵器は敵、憎む者によって使われる。

 それならば、魂の利益のためにそれを使うか、あるいは使うことを望むだけでなく、自分自身の中で争い、内なる至聖所の中で戦いをするためにそれを使うのだろうか?どうもそのようだ。人間の意思は苦痛を見てリラックスしてしまったら、苦痛の存在する状態において、生命を維持できなくなるであろうからだ。どうして人は自分自身を傷つけることを望むのだろうか?

 その問いに対する答えは、一目でわかるだろう。その人はおもに喜びを欲し、戦いの場でもその喜びを意欲的に保ち続けようとするのだが、そこではその喜びが、彼の所有の苦痛と戦い、常に喜びが、勝って彼を喜びの待つ家に連れ帰りたいと望んでいるのだ。これは人の永遠の性質として、その人の状態を成す。彼自身は、苦痛は喜びと相互に統治する支配者であることと、戦いをしても絶対に勝てないだろうことを、心の中では知っているのである。表面的な観察者は、人は避けられないことを甘んじて受けるものだ、という結論を下す。しかしそれは議論するに値しない間違った考えだ。もう少し真剣に考えると、人間は自分の建設的(ポジティブ)な性質を修練せずに存在することは全くできないとわかる。このポジティブな性質の修練をして生きることは、人が選んだ状態なのだという仮定は、筋が通っている。

 なるほど、それなら人が苦痛を望むということを議論するために聞くが、なぜ人は自分自身を悩ませる何かを望むのだろうか?