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黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 人々が望んでいるのは、いかにして苦しみを喜びと取り替えるかをつきとめることである。それは、体験上最も心地よかった感覚を得るには意識がどのように規制されればよいかを見つけ出すということである。このことを人間の思考の力によって見つけることができるかどうかは、少なくとも熟考する価値のある問いである。

 ある与えられた論題に人の心が十分な集中力をもって向けられるなら、その人はその論題に関して遅かれ早かれ啓示を得る。最終的な啓示を得たらしい個々の人は天才、発明家、霊感を受けた人と呼ばれる。だが彼は周りにいる無名の人々による大いなる知的活動(メンタル・ワーク)の頂点にすぎず、その無名の人々は遠方の眺めのために彼から遠ざかっていく。その人々がいなかったら彼は扱う題材を論じることはなかっただろう。三文詩人でさえ注目される。三文詩人とはその時代と前の時代の詩的なエネルギーの真髄だ。どんな人種であろうと個人をその同族から分離させることは不可能である。

 したがって、もしも人々が未知のものを受け入れるのではなく、一斉に未知のものは理解できぬものと考えるならば、黄金の門は断固として閉じたままだろう。黄金の門を押し開けるには、強い力で押す必要はない。門を入る勇気とは、恐れずに、そして恥ずかしがらずに自分自身の性質を奥まで調べる勇気のことである。人のすばらしい部分、本質、特徴の中に、あの偉大な門の錠を開ける鍵がある。門が開いた時、何を見るだろうか?

 ここかしこで長い間の沈黙の声が、その質問の答えを話す。門を通って行った人たちは、一門の人たちに言葉の遺産を残した。その言葉は私たちに、門の向こうに探しに行くことになっている、はっきりとしたしるしを示す。しかし、その道を行こうと熱望する人たちだけが、その言葉に隠された意味を読み取る。学者は、というよりもむしろ古典注釈者は、さまざまな国の神聖な書物を読み、智慧を得たマインドたちの残していった詩や哲学を読み、その中に、ただの物質的性質のことだけしか見出せない。自然界の伝説の賛美や、人の霊的可能性の誇張が人類のバイブルの中にすべて見出せると想像していたのに。

 それらの本の中に見出されるべき言葉は、私たち一人一人の中に見出されるべきことである。探求する人の中に存在しないものを学問の中に見つけたり、思考の手段によって見つけたりすることは不可能である。もちろん、このことはすべての真の研究者に知られている明白な事実である。しかし特にこの深遠で隠されたテーマに関して思い出すべきだろう。人々が容易に認めるため、まるで何もない空虚のように思われているテーマだからである。

 読み手はすぐに一つの事に気がつく。かつて門を通って行ったこの著者たちは、忘却へと至る黄金の門を見つけられなかったのだ、ということを。別の見地から言えば、入り口を通ってはじめてリアルな感覚でわかるのだ。しかしそれは新しい、未知の状態であり、少なくとも何かその特徴を知る手がかりがなければ正しく理解することはできない。その手がかりは、すべての文献をくまなく調べたいと思う、私たちに理解しやすい論説の研究者からならば、疑問の余地なく手に入れられるものである。前述の本や写本は存在するが、単純に次のような理由から、近づきにくいままだ。つまりそれらの本のどれもが、最初のページすら読む用意のできている人はおらず、それらの主題を十分に学んだと確信の持てる人はいない、ということである。ずっと、切れ目のない線があるに違いない。その線が愚鈍な無知から聡明さと智慧に至るまで伸びているのがわかる。さらにその線がきっと直感的な知識とインスピレーションにまで続いているはずだということは、当然のことだ。これら人類の賜物であるわずかな断片のいくつかは、一部分であったはずなのにそれが賜ることのできる全てとして受け取るしかないのだろうか?わずかな文脈の背後に隠されたものは、見たところ見通せない覆いに隠されている。私たちの目からあらゆる科学、あらゆる芸術、人間のあらゆる能力がその覆いにより隠され、剛胆さにより引きはがすまではそのままである。その剛胆さはただ確信からのみ生じる。自分で望んだものが見られるのだということを一たび信じたなら、その人はどんな犠牲を払ってでも望み、獲得するだろう。この場合、問題となるのは人の疑い深さである。門の錠を開け、輝く遠望を調査するためには、大きな思考の流れと注目を、人間の性質の未知の部分へと向け始めることが必要である。

 いかなる危険があろうとも、上記のことはする価値がある。19世紀の悲しくなる問い――人生は生きる価値があるのか?――を問う人は全員、それを認めるべきだ。確かにそれは新しい奮闘に向けて人に拍車をかけるに十分なことだ。新しい奮闘――それは文明を超え、精神文化を超え、芸術を超え、機械的な完成を超えて疑った新たな入口で、人生の現実性に通じている。

 悲しみと倦怠感から生じたこの質問は、見たところ本質的に19世紀の精神の一部分であるように思えるが、実際にすべての時代にわたって問われてきたに違いない。歴史を理知的にさかのぼってみると、その問いは文明の花が満開に咲いた時、そしてその花びらがどうにか散らずに持ちこたえている時に、投げかけられる問いであることは疑いない。人間の生得の部分はその時、最高の頂点に達した。彼は困難の丘を、石を転がして登る。頂上に達した時、また石が転がり落ちるのを見るためだけに。――エジプトやローマやギリシアのように。なぜこの無益な骨折りをするのか? 言葉にならない疲労と病気をもたらすだけでは足りないというのか? 再び落ちぶれるのを見るためだけに、ずっと達成しつづけるのか? だがそれが、私たちの限られた知識の及ぶ限り、人が歴史を通じて為してきたことである。一つの頂点がある。それは人が多大な、そして団結した努力によって達成する。人の本質の物質的、精神的、知的な部分すべての大いなる、見事な開花がそこにはある。感覚を喜ばせる完成の最高点に達すると、彼の支配力は弱まり、権力が減少し、彼は失望と飽き飽きすることにより、未開状態(バーバリズム)へと後退する。なぜ彼は到達した丘の頂上にとどまらないで、山々の向こうへと目をそらし、それらのもっと高い山々に登ろうと決意するのだろうか? それは無知だからだ。きらきら光る遠くの山の輝きを見て、目がくらんでぼう然と目を伏せ、彼は休もうと、慣れ親しんだ丘の日影の方へ引き返す。けれども時々この輝きをじっと見つめる勇気のある人がいて、その光の中にある形を見て取る。詩人、賢人、思想家、師匠――これらすべての「人類の年長者たち」は時々この光景を見て、そのうち何人かが当惑するほどきらめく黄金の門の輪郭を知った。

 黄金の門は私たちにおのれ自身の性質の聖域へ入って行くことを許し、自分の生命の力が出で来る場所、自分が人生という神殿の祭司である所へと通す。これらの黄金の門をくぐって入って行くことが可能であることを、ある1人か2人の人が示してくれた。プラトンシェークスピア、その他少数の強者たちが門を通って行き、門のこちら側で私たちに秘められた言語で語ってくれた。強者は門の入口から中へ入ると、もう門の外で人々に話さない。門の外にいる時に彼が話す言葉さえも神秘に満ち、ベールで覆い隠され深遠であるため、彼の歩んだ道をたどる人たちだけが自分自身の内なる光を見ることができる。

1章

 おそらく今と同じようにこれまでも、かなり多くの人が人生の重荷から逃れるために自殺しようとしてきた。そうすることで完全に忘れ去ることができると確信しているから、そうするのだ。しかし存在の仕方が変化するだけであるとためらい、そしておそらくもっと激しい苦痛の状態があるかもしれないと躊躇し、毒を飲むのをためらう人は、未知の世界の優しさを信用して荒々しく自分自身をそこへ放り出す軽率な魂たちよりも、理解のある人である。忘却の川(*2)は死の川とは全く違う。そして誕生の法則が作用している限り、人類が死によって絶滅することはあり得ない。大酒飲みが大瓶のワインにまた戻って来るように、人はこの世の人生にまた戻って来る――自分ではなぜそうなるのかわからないままで。ただ、ちょうど大酒飲みがワインによって生じた感覚を望むように、人は人生によってもたらされた感覚を望むということだけはわかる。まことの忘却の川は私たちの意識から遠く離れたところにある。そこに到達するには上記のような意識で存在することをやめなければならない。――私たちを感覚と感情でいっぱいにする願望を働かせるのをやめなければならない。

 なぜ人間という生き物は、生まれて来た大いなる沈黙の子宮の中へ戻らず、人生の推進力が及ぶ以前の安らかな胎児のように、平穏の中にとどまらないのだろうか。それは、快楽と苦痛、喜びと悲しみ、怒りと愛を、渇望するからである。間違った人は、自分が生きることへの願望がないと主張するだろう。それでいて生きていることにより、その主張が嘘であることを証明する。誰も無理やり生きさせることはできない。ガレー船に奴隷はつながれても、命を無理に体とつなぐことはできない。人体の素晴らしい構造は、火がつかないエンジンと同じように、生きる意志がなくなってしまったら役に立たない。――生きる意志は断固として維持され中断しない。そして私たちが課された任務を遂行することを可能にする。さもなければ失望に満たされ、生まれてすぐに死んでしまう。このようなすごい努力を不平も言わず、まさに喜んで続けるのも、私たちがおびただしい感覚の中で存在するためであろう。

 そしてさらに、だいたいの人が目標(ゴール)という概念もなく、またはどちらの方向に進んでいるかわからないまま、意図も目当てもなしに進み続ける。この目的のないことに最初に気づき、自分が大きくて絶え間ない努力で働いていることをかすかに自覚し、それらの努力がどの目標に向けられているかについて全く考えがないことに気づいた時、人はみじめな19世紀の思潮に下降してしまう。その人は道に迷って当惑し、希望を失う。懐疑的になり、幻滅し、疲れ、答えのないように見える次の質問をする。このような未知で理解の及ばぬような結末のために生きるのは本当に無駄ではないだろうか。だが、その結末は理解が及ばないのだろうか? 少なくとも、もっと小さな質問には答えがあるだろう、つまり目標(ゴール)がある方向を推測することはできないだろうか? という質問の答えは。

 

 

 

*2 忘却の川、レテ。ギリシア神話で黄泉の国にあり、この川の水を飲むと浮き世のことはすべて忘れるという。(ランダムハウス英和大辞典)

1章 喜びの探求 Ⅰ

1章

 私たちはみな、苦痛と呼ばれる厳しい状況についてよく知っている。不思議なことに、最初にそう思われるように、苦痛は人に漠然としてはいない、あるいははっきりとした方法をとらせ、断固たる、とぎれることのない粘り強さを追求させる。苦痛が完全にずっと続くことはなく、そうでなければ人は生きるのをやめねばならないだろう。しかし不断の努力は中断しない。いつも影のような姿をした絶望が人の後ろに立っていて、あまりにも長い間そこにいることに気づかれないなら、その恐ろしい指で今にも触れようとしている。このぞっとするほど恐ろしい影に、私たちが生まれた時から死ぬ時まで、絶えずつきまとう権利を与えたのは何か? その影が常にドアを少し開けたままにしていて、ちょうどふさわしい時に中に入って来ようといつも待ち構えている権利を与えたのは何か? 最も偉大な思想家がその常に生命を持った影の前に、ついに屈し倒れる。その人は、思慮分別があり次の事実がわかっている思想家にすぎない。つまり影に抵抗はできず、そして他のすべての人々と同じように彼もいつかはそれに苦しまなければならないのだという事実を知っている。この苦しみや悲しみは、人々の遺産の一部である。だが何ものにも苦しめられないでいようと決心する人は、深くて冷たい利己主義に自分をすっぽり包みこんでしまう。このように自分を包みこんでしまうことで、自分を苦しみから守るかもしれない。そのことは、喜びから切り離してしまうことでもあるだろう。平和がこの世で見つかることになっているなら、あるいは喜びが人生で見出せることになっているなら、それは感受性(フィーリング)の門を閉ざすことで可能となるのではない。感受性は私たちに最も高いところへ、そして存在の最も鮮明な部分へ、入って行くことを許すものだ。肉体を通して知覚を得る時、私たちはみな感覚によって、この姿で、生きようという気になる。どんな人でも、呼吸が満足感をもたらさない限り、わざわざ呼吸したいなどとは思いもしない。人生の一瞬一瞬の行為はどれも、それと同じである。たとえ苦痛の感覚があるとしても、喜ばしいがゆえに私たちは生きる。強く望むことは感覚による。他にも、無意識という深い海の経験と一つになるのも、人類が絶滅するだろうことも、そうである。もしあることが物質界の生活で起こる事例なのだとしたら、間違いなく感情的な生活上の事例でもある。――感情、想像力、情緒。これらすべてのすばらしく繊細な構造は、脳の驚くべき記録のメカニズムによって、内的あるいは精妙な人間を作り上げる。感覚は喜びを得る。果てしなき一連の感覚が人の生涯である。人生上の試みにおいてたゆまず働くことを望む感覚は、滅ぼしてしまったら後に何も残らない。したがって苦痛の感覚を完全に取り除こうとする人は、そして喜びにも傷心にも同じ状態を保とうとする人は、生命のまさにおおもとを襲われ、その人自身の存在する目的を破壊してしまう。そしてそのことは、今のこの推論あるいは直観力が示す限り、すべての状態にあてはまり、東洋人が憧れるニルヴァーナにすら当てはまるに違いない。ニルヴァーナの状態はそもそもそれが状態であるとすれば、そして魂の消滅ではないならば、たいへん繊細で神秘的で鋭敏な感覚の一状態にすぎない。そして目下のところ判断できる、人生上の経験によれば、感覚の精妙さが増すということは、鮮明さが増すということである。その例として、感受性と想像力のある人が友人の誠実さと不誠実さを感じる度合いは、感覚という媒体を通して粗大な物質の性質を感じる度合いよりも大きい。したがって、思想家が感じることを拒絶しても、それから逃れて行く場所はない。遠く到達できないニルヴァーナという目標すらも、感じることから逃れられるものではない。その人はただ、生命の文化遺産、言い換えれば感覚の権利を、自分に与えることを拒絶しているにすぎない。もし人を人たらしめるものを犠牲にすることを選ぶなら、ただ無意識で怠惰であることに甘んじているにほかならない――それに比べれば牡蠣の生活のほうが刺激的というものだ。

 しかしそのような「偉業」を成し遂げることのできる人は誰もいない。ある人が存在し続けているという事実は、次のことをはっきりと証明する。彼は感覚をまだ望んでおり、欲望が肉体的生活の中で喜ぶに違いない積極的で活発な形態を、望んでいるということを。禁欲というまがい物で自分自身をごまかそうとせず、放棄したところで何も欲望からその人を引き離さないだろうからそうしないのは、より現実的なことと思えるだろう。それが存在の大いなる謎を解明するためのはっきりとした、より期待できる方法ではないだろうか? その方法によって神秘を確固たるものとし、神秘それ自体を問うことができるのだ。もし喜びや苦しみから学べる教訓について、立ち止まってよく考えるならば、喜びや苦しみという結果の原因である未知の事柄によく思い当たるかもしれない。だが人々は内省あるいは人間性の細かい分析から急いで顔をそむけがちである。それこそがどの学派の方法(メソッド)にも引けを取らず理解できる人生の科学であるに違いないのだが。その科学は測り知れない未知のものであることは確かだ。それにその科学は推測されたものにすぎず、一人か二人のより進歩した思想家にほのめかされたにすぎない。科学の進歩とはすでに存在するものの発見にすぎない。そして人生の科学が普通の理解力の人にとって不思議で信じられないものであるのと同じように、化学は今、田舎の若者にとって不思議で信じられないものである。しかし、最も早く研究所の実験をかじってみて新たな知識の発展を知る先見者がいるかもしれず、きっといることだろう。彼らは今や、人々が用い、その利益にあずかるために自然から発展した知識の体系を見たのだ。

黄金の門をくぐって 冒頭

 

思考の断片

 

 ある時、私が独りきりで執筆していると、不思議な訪問者が予告もなく書斎に入って来てそばに立った。その人が誰なのか、なぜそのように突然入って来たのか、尋ねることも忘れた。その人が黄金の門(*1) の話をし始めたからである。その人は知識を基に話した。その話の火が私に信仰として燃え移った。その言葉を、私は書き留めた。しかし、ああ、その人の話ほど明るく輝いて燃える火を、私の著書に期待することはできない。――M.C.

 

 

*1 黄金の門 本文を読み進めるうちに、それがどのような門なのか、その向こうにどんな道がのびているのか、示唆されていく。(訳者)

 

 

 

序文

 

 まことの思想家(philosopher)以外のふつうの人は、その人独自の人生観を持っている。最も無知な者は生きる目的についてある考えを持ち、その目的を最もラクに、最も賢い方法で達成する方法について、はっきりとした考えを持っている。世慣れた人はしばしば、自分自身でも無意識のうちに、自分が一流の思想家だと思っている。その人は最もわかりやすい特性の諸事に対処し、偶然起きる災害でその態度は粉々に打ち砕かれる。思考と想像力を働かせる人は、あることについてあまり確かな考えが持てず、自分自身が絶えずそのことについて明確な考えを組み立てられないことに気づく。その最も深遠で人間性にとって興味深い主題――人生についてである。本当の思想家とは、何についてもその肩書きを持つ権利が自分にあると主張しないし、人生の神秘には普通の思考では近付けないと知っている人であり、それはちょうど本当の科学者は科学の背後にある本質について完全に無知であることを認めるのと同じである。

 人生に目的として間違いなく存在する、大いなる根源を知的努力で理解することが可能なのか、あるいは何らかの思考方法があるのかどうか、という疑問に、普通の人は答えを見出せないだろう。けれども、ぼんやりと次のことを認識できる。目に見える結果の背後に原因があること、混沌を統治している秩序があって、不協和音に満ち広がってハーモニーへと昇華させること、熱望するこの世の魂たちを苦しめて、目に見えぬビジョンと知識でない知識を切望するに至らせるもののあることを。

 なぜ、すべての望みのはるかかなたにあるものを、内なる目が開かれる前に、熱望し、探し求めるのだろうか? なぜ、広大なパズルにはめることのできない手の中のパズルの断片を合わせて何らかの形が見えてこないか、やってみようとしないのか?