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黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 ひとたび黄金の門の意義をよく考えたら、それらの門を通って行く以外の人生の形態はないということが明らかになる。それらの門は、大人になるということの花が実を結ぶ場所にだけ通じている。母なる自然界を必要とする人たちにとって、それは最も優しいお母さんである。そのお母さんは決して子供たちにうんざりしたり、人数が減ることを望んだりしない。そして大勢の群衆に向かって腕を広く広げている。その大勢の群衆は生まれて肉体をまとって存在することを望む。彼らがそうすることを望み続ける間は、自然界の母は微笑んで歓迎し続ける。ではなぜ彼女は、ある人たちには戸を閉ざさねばならないのだろうか? 彼女のハートの中である人の人生がまだ尽きていない時に、その魂の百番目の部分がたとえばその地点で発見した感覚を熱望したとして、その魂の人生を他所へ追いやってしまう理由などあり得ようか? 欲望の種は確実に、まき手がまいた場所に芽を出す。それはもっともなことに思われる。さらにインド人の精神の基礎を成す生まれ変わりや何度も肉体化身する理論は見たところ自明の理であり、もはや実例など必要としない東洋の思想のよく知られた一部分である。インド人は、西洋人がその日一日は一生を構成すると知っているのと同じように、生まれ変わりの理論を知っている。この知識の確実性は東洋人の持つ自然の法則という認識の中に存在する。自然の法則は、魂の存在の大いなる流れを統制する。その認識は単純に思考の習慣により得られるものである。東洋人の多くの精神(マインド)を占めていることは、西洋では思いもよらないこととみなされている。このように東洋人は人類の霊的成長という偉大な花を咲かせたのだ。百万人もの人の精神的模範として、仏陀は黄金の門を通り抜けた。そして群衆が入り口のところで懇願したので、仏陀は言葉を残して行くことができた。それらの言葉は、黄金の門が開くであろうことを示すものであった。

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 間違いなく、物質の中にあるものを理解するためには自分自身を教育せねばならないが、同じように物質を超えたものを理解するためにも自分自身を教育せねばならない。誰もが知っていることだが、幼少期は一つの長い適応する過程であり、感覚が働く特別な活動範囲に関してそれらの感覚を働かせるコツを覚える過程であり、物質界の知覚に関して難しくて複雑でまだ不完全な体の組織を完全に使えるように訓練してゆく過程である。子供は、生きようと思うならば躊躇せず徐々に前進するし、真剣にそうする。ある赤ん坊たちは大地の光の中に生まれて、その光にひるみ、彼らの前にある多すぎるタスクに挑むのを拒み、物質的生活を可能とするために成し遂げられねばならないことに取り組もうとしない。その子らはまだ胎内にいる身分へ戻る。その子らがさまざまな部分を備えた道具である肉体を横たえ、しだいに眠りに陥って行くのを私たちは見る。それはもう物質の世界に打ち勝ち、征服し、楽しむようになった大多数の人間のかつてである。この大勢の各々は、よく見知った領域内ではたいへん力強く自信に満ちていても、非物質的な世界に面するとまだ赤ん坊だ。さらに彼らがあちらこちらで、日々そして毎時間、物質的生活の住人である仲間のところへいやいやながらも後退し、すでに経験し理解した意識に固執しているのを我々は見る。すべての純粋な霊的知識を知性が拒絶することは、この怠惰の最も際立ったしるしであり、すべての立場の思想家はこの怠惰のせいで確実に有罪である。

 生まれて最初の努力が多大なものであることは明らかである。そしてそれは明らかに、強さの問題でもあるし、自発的な活動でもある。だがこの強さを習得する方法あるいは習得して使う方法は、意志を働かせる以外にない。すごいものを持って生まれることを期待しても無駄である。人生の領域には、その人自身の過去よりほかに継承するものはない。彼は彼のものを蓄積せねばならない。己れの目を偏見によって盲目にしてしまうことのない観察者にはこのことは歴然としている。たとえ偏見を今ここに持っているとしても、その事実を感覚ある人間が気づかずにいるのは不可能である。そのことは、死後長い年月にわたって続くか、または永遠不滅であるかのいずれかの救済の教えを、私たちが得ることからわかることだ。その教えは自然界の真実を狭く限られた愚鈍な方法で示すもので、人は蒔いたものを刈り取るだろう、というものである。スウェーデンボリの偉大な知性には次の事実がたいへん明確にわかった。つまりこの特別な存在に関する最終的状態を強く思い込みすぎて、その先入観が、もはや感覚の世界で行動することがなくなった時に新たな行動の可能性があることに気づけなくしてしまうことをである。人は科学的観察を求めて独断的になり過ぎ、春の後に秋が来て、昼の後に夜が来るように、誕生の後に死が来るはずであることを見ようとしない。黄金の門の入り口に非常に近いところまで行き、ただの主知主義を超えて、ある地点にちょっとだけ立ち止まってもさらに一歩先へ行く。過去に得たものを超えた人生をのぞき見ると、どうやら宇宙を包含しているようだ。そして経験の断片から、全人生を包含する理論を持つようになって、その状態を超えて前進するのを拒んだか、もしくはその状態の外にある可能性を拒んだのだ。これはうんざりする円輪をぐるぐる回すことの、もう一つの形態にすぎない。しかしスウェーデンボリは何よりもまず、黄金の門が存在し、さらにそれは思考の高所から見えるという事実を目撃する大勢の証人たちの一人であり、彼は門の入り口から私たちに感覚のかすかな高まりを投げかけてくれた。

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2章 入り口の神秘 Ⅰ

 間違いなく、人生の新しい段階の入り口では、あるものを捨てなければならない。子供は大人になった時に幼稚なことをやめる。聖パウロはそのことを示し、彼が残した多くの言葉とともに、彼が不老不死の霊薬を飲み黄金の門へ至る道を歩んだことを伝えた。カップ一杯の喜びの中に入れた神の飲み物の一滴一滴により、何かがカップから不浄なものを取り除き、その魔法の一滴の入る場所をつくる。それは母なる自然がその子供たちに物惜しみせずに与えるからだ。人のカップは常にいっぱいに満たされている。もしこの素晴らしい、生命を与える本質を飲むことを選んだなら、その人は自分自身のより低俗でより繊細さに劣る部分を捨てなければならない。これは毎日、毎時間、一瞬一瞬に命の飲み物を増やしていくために為されなければならない。そのことを断固として為すために、彼は彼自身の指導者となり、いつも自分に智慧が必要であることを知り、禁欲生活を実践する準備をし、彼自身に対しためらわず鞭を用いなければならない。彼の目標を勝ち取るために、である。次のことが、この主題を本気で考えるすべての人に明らかになる。自分の中に官能におぼれる可能性も禁欲主義者になる可能性も、両方秘めた人だけが黄金の門をくぐるチャンスがあるのだ、ということである。彼は喜びをもたらしてくれるどんな存在物にも、最も微妙なものを味わい、それを高く評価することができなければならない。さらに、あらゆる楽しみを拒むことができ、そのように拒絶しても苦痛でなくならねばならない。この二重の可能性をのばしてから、彼は喜びをふるいにかけ始めることができ、土から造られた肉体人間に完全に属する喜びを意識から取り除くことを始められるようになる。その肉体人間の喜びを突っぱねたら、もっと純化された喜びのある次の領域が待っている。人が人生の真髄を見つけ出すことができるようになるのは、禁欲的な思想家の実行する方法によってではないだろう。禁欲的な人は楽しいことの中に喜びがあってはならないとし、否認することで次から次へと何もかも失う。しかしいかなる思考の方法にも縛られずに人生そのものを学んだ真の思想家は、殻の中に種が見える。そしてがさつで無頓着な人のように木の実をまるごとガリガリとかみ砕くのではなく、殻を割って取り除くことでものの本質が得られるということがわかる。感情のすべて、感覚のすべてがこのプロセスに適しており、それ以外に人の成長、人の性質の本質的部分の一部を構成し得るものはない。そのために彼の前に力、人生、熟達があり、目標達成への道の部分部分には手助けとなるものがびっしり詰まっている。それらは物質から離れた人生を認めない人々によってのみ否定される。その人たちの精神的なポジションは全く気まぐれなので、衝突したり戦ったりしても無益である。古今を通じていつでも、目に見えないものが見えるものを押しやって、非物質的なものが物質的なものを打ち負かしている。古今を通じていつでも、物質を超えたもののしるしや徴候が、物質にとらわれた人々を試し評価するために待っている。その人たちは勝手に立ち止まる場所を選び、どうすることもできない。彼らを妨げずそのままにしておこう。彼らが、それが存在するものにとって最高の活動であると信じて円輪の中をぐるぐる走るなら、そうさせておこう。

 この精神的苦痛と努力を無駄にすることへの治療法は何だろうか。それは一つだけだろうか。確かに人生にはロジックがあり、生きることを可能にする法則がある。そうでなければ混沌と狂気だけが到達可能な状態となろう。

 最初のカップ一杯の喜びを飲む時、魂は言語に絶する喜びに満たされる。その喜びは最初の、新鮮な感覚を伴っている。その人が二杯目のカップの中へ入れる一滴の毒は、もしその愚かさに固執するのなら、二倍にも三倍にもなり、ついにはカップの中身がすべて毒になるに違いない――毒は、繰り返しと増大への無知に基づく欲望である。このことはあらゆる類推から、明らかに死を意味する。子供は大人になる。不可避の代価を払うか馬鹿にならない限り、子供時代をとどめておいたり、子供の頃の喜びを再現したり強めたりできない。植物は地面に根を張り、葉を高く広げる。それから花を咲かせ、実をつける。根や葉を出すだけでずっと成長しなかったら、庭師に劣っていると思われ、捨てられてしまうに違いない。

 努力の道を選び、魂を鈍くする怠惰な眠りを拒む人は、いつも感知できるより微細な喜びを見つける。――その微細な喜びは、精妙な何かであり、単に感覚を喜ばせることがすべてである状態をますます脱して遠くかけ離れた何かである。この精妙なエッセンスは不老不死の霊薬であり、人を不死身にする。それを味わう人と、それがカップにたまるまで飲まない人は、熱望する目の前に人生が大きく広がり、世界が大きくなるのを見る。彼は愛する女性の中の魂に気づき、欲情は静寂となる。彼は思考の中に霊的真理のより微細な性質を見る。霊的真理は私たちの頭脳の仕組みを超えて作用し、さらに、彼は知的追求の堂々巡りに入り込むかわりに直観という鷲の広い背中にやすらい、澄んだ空高く舞い上がる。その空は偉大な詩人たちが洞察力を見つけた場所である。彼は自分の中に感覚の力、新鮮な空気と日光、食べ物とワイン、動くことと休むことを喜ぶ力、精妙な内なる人間の可能性、肉体や脳が死んでも死なないものを見る。芸術、音楽、光と美の喜び――人々が外形にすぎないとわかるまで繰り返すそれらの形態の中に、彼は黄金の門の栄光を見て、酔わせるものも強化するものも超えた新しい人生を見つけるためにそれをくぐり行く。肌を刺すような寒い山の空気がまさしく本物の活力で人を酔わせ、力づけるように。もし彼が不老不死の霊薬をカップの中に一滴ずつ注いできたなら、その場所の極端に強い空気を吸える強さを有し、そこに十分生きられる。それから肉体が生きようと死のうと、等しく彼はそのまま進んで行き、新しくてより微細な喜び、より完全で満足な経験を、吸って吐く一呼吸ごとに見つけるのだ。

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 怠惰は実のところ、人々の不幸の種である。アイルランドの粗野な者や世界に広く移り住んだジプシーが、とてつもなく怠惰なために堕落と貧困の中に暮らすのと同じように、粋人も同じ理由で感覚的な喜びの中に甘んじて暮らしている。上等なワインを飲み、おいしい食事を味わい、美しい女性や周囲の見事なものに、きらめくような楽しさを見聞きする――これらのことは、訓練された人にとっては教養のない人の無骨な満足や粗野な娯楽以上に良いものでもなく、最終的な目的地に達する喜びからすれば、より十分なものでもない。究極の地点というものはあり得ない。あらゆる生活の様式はどれも、一つの広大なグラデーションの連続になっているからだ。そして到達した文化の地点に立ち止まっていることに決めた人や、それ以上先へは進めないことを率直に認める人は、単に自分の怠惰の言い訳を、自由意思で表明しているのだ。もちろんジプシーは堕落と貧困の境遇に置かれていると明言できるかもしれず、実際そうであるが、ジプシーほど偉大な、最も教養ある人たちはいない。だが無知である間はそうなのだ。薄暗い心に光が差した瞬間、人のまるごと全体がそれへ向く。だからそれはより高い段階のことである。心に光が差し込むこと、光を入らせることの困難さだけがなおさら大きいことなのだ。アイルランドの粗野な者がウイスキーが大好きで飲んでいる間、倫理的・宗教的な大いなる諸法則を気にもかけない。その法則は人類を統治するとされており、人々に節制を守って生きるよう仕向ける。洗練されたグルメの人は微妙な味や最高の味わいしか気にかけない。彼は生粋の粗野な者と同じように、このような満足を超えた何かがあるという真実に気づかない。粗野な者のように彼は魂に重くのしかかる幻影に惑わされる。そして一度手に入れた、彼を楽しませる感覚的な喜びが、終わることのない繰り返しによってこの上ない満足をくれるものと思って、ついに狂気に達するまで繰り返す。大好きなワインの香りが、魂の中に入り込み毒する。彼には何の思考も残らず感覚的な願望だけが残る。彼は酒に狂って死ぬ人と同じ絶望的な状態にある。その大酒飲みが、狂気から何か良いものを得ただろうか? いいや、何もない。苦痛がついに喜びを完全に飲み込んでしまい、苦悩を終わらせるために死が介入して来る。自然の法則が重力の法則と同じくらい変えられぬものであることに無知でいつづけることへの最終的な報いにその人は苦しむ――自然の法則とは、人にじっとしていることを許さない法則である。カップ一杯の楽しみは二度は味わえない。二度目には、ほんの少しの毒か一滴のエリキサ(霊薬)か、どちらか一方がきっと入っている。

 同じ主張が知的な楽しみについてもあてはまる。同じ法則が働くのである。次のような人々がいる。同輩を超越し、抜きん出ている、その時代の精華とも言うべき知識人で、ついに破滅的な思考の回し車に食い込まれ、生来の魂の怠惰な性質に負けてしまい、自分自身を繰り返しなぐさめることでだまし始める。その後で、不毛と活力の欠如がやって来る。――中程度の生活が消え去ったちょうどその時、偉大な人々がよく入り込む、みじめで失望する状態である。若さの火、若い知識人の活力は、内的な無気力に打ち勝ち、人に思考の高みへと登らせ、精神の肺を山々の自由な空気で満たす。しかしその後、とうとう身体的な反動が始まる。脳の肉体的な構造は勢いの強さを失い、努力の緊張が緩み始める。肉体の若さは終わっているからである。今やその人は人生の階段の上で、その地点にまで上って来る人たちを待ちながら永遠に立っている仲間の偉大な気質に悩まされる。彼は耳に毒の滴がしたたり落ち、その瞬間から全意識が愚鈍さを帯びる。そして人生がさまざまな可能性を失ってしまったのではないかと恐れる。なじみ深い経験の壇上に急ぎ戻り、そこでよく知っている激情や感情の心の琴線に触れる慰めを見出す。そしてその居心地の良さにいつまでもとどまり、未知の試みを怖れ、引き続き感情の琴線に触れる、最も容易に見返りが得られることに満足するのである。このことは、彼らの中で今もなお生命が燃えていると断言できることを意味している。だがついに、グルメや大酒飲みと同じなれの果てとなる。魔法のような魅惑の力は日ごとに減り、それは失速する機械のようである。その人はより過敏に気持ちを表し、ものに固執し、カップの中に残った致命的な最後の毒を飲むことで、古い興奮をよみがえらせようと努める。それから彼は放心状態となる。あたかも狂気が飲んだくれの肉体にやって来るように、狂気が彼の魂に訪れる。人生にはもう何の意味もなくなり、やみくもに気の狂った精神障害どん底へと急ぐ。この大いに愚かなことをする劣った人は、おなじみの思考に愚鈍に執着することで、そして自分で最後のゴールだと言い張る回し車にしがみつき続けることで、他者の霊を疲れさせる。彼を取り巻く暗雲は、死そのものと変わらないくらい破滅的である。でも彼自身の偉大さを思い出すために、かつてのようにひざまずいて悲嘆を追い払い、ずっと昔に聞いた言葉を思い出すべきである。

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 終わりに達し、目標に到達し、もうすることはないと思われる時――ちょうどその時に、人は食べるやら飲むやら、心地よく生活するといったように獣のようにするしかないようだ。そして死のような懐疑論も――。実にその時もし目を向けたならば、黄金の門は目の前にある。内面に根づいた時代の文化と、完全に同化したものとによって、その人はそれらの権化となる。そして完全に可能な大いなる一歩を踏み出す用意はできているが、そのように挑んだその道の適者というのはたいへん少ない。門へ行こうとする人はめったにいない。その理由は部分的にはそれを取り巻く大きな困難のせいだが、もっと主要な原因は、門へと向かうのは実際に喜びと満足の手に入る道だということが分からないということだ。

 各個人の興味をひく、ある楽しみがある。ある感覚の層か、または別の感覚の層に自分の最も主要な楽しみを与えてくれるものがあるということを誰もが知っている。それは人生を通して自然に、いもづる式に知るようになる。ちょうどヒマワリが太陽の方を向き、睡蓮が水を頼りにするように。だが終始、魂に重くのしかかるひどい事実と戦う。つまり楽しみを手に入れるやいなや、またそれを失い、再びそれを求めて行くことである。それよりもひどい事実もある。実際にはその楽しみは決して手が届かない。つかみ取ろうとする瞬間、手から逃れて行くからだ。なぜならば、手の届かないものを取ろうと努力し、感覚のために外的な物体と接触することで魂の飢えを満たそうとしているからである。内なる霊的人間を外的に満足させるか、喜ばせることのできるもの――人を内的に支配し、物質に興味がなく、物に触れる手も、魔法の壁の外側のことが感じ取れる感覚もない霊的人間を、満足させるか喜ばせることのできる外的なものがあり得ようか? 内なる人間を取り巻くそのような魅惑的な障害物はいたるところにあり、尽きることがない。それは生きとし生けるものすべてにあり、宇宙をまるごと一つとみなすならば、宇宙にそれのない場所など想像できない。そして始めに、その要点が仮にでも認められない限り、人生の話題を熟慮してもむだである。本当に普遍的で統一性がなければ、そして私たちは自分自身のためではない何かの一部であるという事実ゆえに存在し続けるのでない限り、人生は無意味である。

 人の発達における最も重要な要素の一つは、普遍的な統一と調和の法則を、認識すること――それも深く完全に――である。個人と個人の間、世界と世界の間、全世界と生命の異なる極どうしの間、空間と呼ばれる精神的夢想と肉体的な夢想の間にあるへだたりは、人類が想像した悪夢だ。その悪夢は存在する。そしてその悪夢がひどく悩ませるためだけに存在すると、すべての子供が知っている。さらに私たちに必要なのは、私たち自身だけにかかわる脳の幻想と、他者にもかかわる日常生活の幻想との違いを見分ける力である。この法則はもっと大きな事例にも当てはまる。その事例とは他の誰でもない私たち自身に関係することだ。私たちは想像上の恐怖という悪夢の中に生きており、仲間というものが夢の一部にすぎないものだから、全世界で自分はひとりぼっちだと思い込み、他と関係しないで行動できると思い込む。だが黄金の門に挑みそれを押し開けようとした人たちと話したいと望むならば、次のことは大変必要なことである。つまり生活を眠りの混乱状態に至らせず、それを見分けることが。生活を眠りの混乱状態にしてしまうなら、頭のおかしな人と思われるし、友のいない混乱の暗闇の中に後退してしまう。この混沌が人の努力の一つ一つに付き添ってきたことは歴史に記されている。文明が開花した後、その花は散って枯れ果て、冬と暗闇がそれを滅する。人が夜の幻影と昼の活気ある姿をはっきり見分けられる識別力を得る努力をするのを拒絶しようとも、このことは必ず起こるに違いない。

 しかし、もしこのリアクション的な性癖に抵抗する勇気を持ち、到達した高みにぐらつかずにしっかり立つならば、そしてさらなる一歩を踏み出す場所を探し求めるならば、見つからないということがあろうか。ある地点で、これが終点への道だと思われることを決めるものは何もない。公然と認められた習慣と、人々が認めた、自分たち自身の抱え込む怠惰を正当化する理由となるものだけしかない。

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 人々が望んでいるのは、いかにして苦しみを喜びと取り替えるかをつきとめることである。それは、体験上最も心地よかった感覚を得るには意識がどのように規制されればよいかを見つけ出すということである。このことを人間の思考の力によって見つけることができるかどうかは、少なくとも熟考する価値のある問いである。

 ある与えられた論題に人の心が十分な集中力をもって向けられるなら、その人はその論題に関して遅かれ早かれ啓示を得る。最終的な啓示を得たらしい個々の人は天才、発明家、霊感を受けた人と呼ばれる。だが彼は周りにいる無名の人々による大いなる知的活動(メンタル・ワーク)の頂点にすぎず、その無名の人々は遠方の眺めのために彼から遠ざかっていく。その人々がいなかったら彼は扱う題材を論じることはなかっただろう。三文詩人でさえ注目される。三文詩人とはその時代と前の時代の詩的なエネルギーの真髄だ。どんな人種であろうと個人をその同族から分離させることは不可能である。

 したがって、もしも人々が未知のものを受け入れるのではなく、一斉に未知のものは理解できぬものと考えるならば、黄金の門は断固として閉じたままだろう。黄金の門を押し開けるには、強い力で押す必要はない。門を入る勇気とは、恐れずに、そして恥ずかしがらずに自分自身の性質を奥まで調べる勇気のことである。人のすばらしい部分、本質、特徴の中に、あの偉大な門の錠を開ける鍵がある。門が開いた時、何を見るだろうか?

 ここかしこで長い間の沈黙の声が、その質問の答えを言う 。門を通って行った人たちは、同じ道の人たちに言葉の遺産を残した。その言葉は門の向こうに探しに行くことになっている、はっきりとしたしるしを示す。しかし、その道を行こうと熱望する人たちだけが、その言葉に隠された意味を読み取る。学者は、というよりもむしろ古典注釈者は、さまざまな国の神聖な書物を読み、智慧を得たマインドたちの残していった詩や哲学を読み、その中に、ただの物質的性質のことだけしか見出せない。自然界の伝説の賛美や、人の霊的可能性の誇張が人類のバイブルの中にすべて見出せると想像していたのに。

 それらの本の中に見出されるべき言葉は、私たち一人一人の中に見出されるべきことである。探求する人の中に存在しないものを学問の中に見つけたり、思考の手段によって見つけたりすることは不可能である。もちろん、このことはすべての真の研究者に知られている明白な事実である。しかし特にこの深遠で隠されたテーマに関して思い出すべきだろう。人々が容易に認めるため、まるで何もない空虚のように思われているテーマだからである。

 読み手はすぐに一つの事に気がつく。かつて門を通って行ったこの著者たちは、忘却へと至る黄金の門を見つけられなかったのだ、ということを。別の見地から言えば、入り口を通ってはじめてリアルな感覚でわかるのだ。しかしそれは新しい未知の状態であり、少なくとも何かその特徴を知る手がかりがなければ正しく理解することはできない。その手がかりは、すべての文献をくまなく調べたいと思う、読み手に理解しやすい論説の研究者からならば、疑問の余地なく手に入るものである。前述の本や写本は存在するが、単純に次のような理由から、近づきにくいままだ。つまりそれらの本のどれも、最初のページすら読む用意のできている人はおらず、それらの主題を十分に学んだと確信の持てる人はいない、ということである。ずっと切れ目のない線があるに違いない。その線が愚鈍な無知から聡明さと智慧に至るまで伸びているのがわかる。さらにその線がきっと直感的な知識とインスピレーションにまで続いているはずだということは、当然のことだ。これら人類の賜物であるわずかな断片のいくつかは、一部分であったはずなのにそれが賜ることのできる全てとして受け取るしかないのだろうか? わずかな文脈の背後に隠されたものは、見たところ見通せない覆いに隠されている。私たちの目からあらゆる科学、あらゆる芸術、人間のあらゆる能力がその覆いにより隠され、剛胆さにより引きはがすまではそのままである。その剛胆さはただ確信からのみ生じる。自分で望んだものが見られるのだということを一たび信じたなら、その人はどんな犠牲を払ってでも望み、獲得するだろう。この場合、問題となるのは人の疑い深さである。門の錠を開け、輝く遠望を調査するためには、大きな思考の流れと注目を、人間の性質の未知の部分へと向け始めることが必要である。

 いかなる危険があろうとも、上記のことはする価値がある。一九世紀の悲しくなる問い――人生は生きる価値があるのか?――を問う人は全員、それを認めるべきだ。確かにそれは新しい奮闘に向けて人に拍車をかけるに十分なことだ。新しい奮闘――それは文明を超え、精神文化を超え、芸術を超え、機械的な完成を超えて疑った新たな入口で、人生の現実性に通じている。

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