黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 人の魂にとって何よりもまず必要なのは、本当の人生を見つけるための大きな努力に従事することであるが、そのことは子供が最初に体の機能を欲するのと同じである。子供は立つことができなければならない。魂の中の立ち上がる力、平衡の力、集中の力、直立の力は、際立った特質であることは明白だ。この特質を最も容易に示す言葉は「自信」である。

 人生とその変化のただ中で、じっと動かぬままでいること、そして選んだ地点にしっかりと立っていることは、自分自身と自分の運命に自信がある人にのみ、成し遂げられる偉業だ。さもなければ人生のせき立てるやり方が、人々の氾濫の急襲が、思考の大洪水が、その人を必然的に運び去り、偉大な事業を始めることが可能な意識の置き場所を失ってしまうだろう。このことは意識的に為さ「なければならない」し、外部からの圧力なしで為さねばならない、生まれたばかりの人間の行為なのだ。この世の偉大な人たちはみな、この自信を持っており、全世界の中の堅固な地点にしっかりと立った。この場所は必然的に人それぞれに違っている。それぞれがそれぞれの地と天を見つけなければならない。

 私たちには苦痛を和らげたいという本能的な願望があるが、他のあらゆることと同様、外面的に働きかける。単純に苦痛を軽減し、さらにそれを続け、最初に選んだ要塞から追い払うと、勢いを増した苦痛がまたどこか別の場所に現れるのだ。(つづく)

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 人の本質とその傾向について注意深く考察したならば、成長していくはっきりとした二つの方向があるのがわかるだろう。人は木のように地中に根を伸ばし、同時に天に向かって若い枝を伸ばす。個人の中心の点から外へ向かうこれらの二つの道筋は、自分にとってはっきりしており、明確でわかりやすい。あの人は良くこの人は悪い、と人は言う。しかし類推や観察や経験によれば、人は一本の直線のようなものではない。その人が、またはその人の人生が、あるいは進歩向上が、成長が、または何と呼ぼうともそれが、ただ一つのまっすぐの道だけを辿ることによるふりをするのは、狂信者である。巨大な難問の問いかけ全体が、たいへんたやすく解明されるだろう。しかし伝道師が断言するほど、落ちぶれることはたやすいことではない。落ちぶれ駄目になることは、黄金の門に至る道を見つけるのと同じくらい困難なタスクなのだ! 人は感覚の海ーーつまり楽しみーーに自分を難破させるかもしれず、その人の全性質の品性を落とすかもしれない。ーーだが完全な悪魔になるほど落ちてはいない。まだ神の光の火花がその人の中にあるからである。彼は破滅に至る広い道を行こうと決め、勇ましくその道に入り、全速力で進む。だがすぐにある考えがふと浮かんでギクッとし、足を止められる。そのある考えとは、彼自身の性向であり、あまたあるエネルギーの発散の中の、彼の自我の中心から来る放射物である。それが奇妙に発達して、健常な行動の邪魔をする時、彼の肉体と同様に彼は苦しむ。自分が苦痛を作り出し、自分で作ったものと戦うこととなった。まるで、この激論を交わす戦いが、肉体の痛みに効かない塗り薬を塗っているかのように見える。もし、ふだん心を占めているよりも高い見地から人間を考えたなら、それとは違うふうに見える。人が、願望に従って外界に現れた形をまとった、強力な意識とみなされるなら、肉体の痛みはそれらの願望の形が損なわれたことに起因するのは明らかとなる。たぶん人のこの概念は、根拠がなさすぎるし、証拠の入手できない未知の場所へメンタルが飛び込むには大きすぎて無理だということが、多くの心(マインド)にとってはっきりしてくるだろう。しかし心がこの見地から人生を観察するのに慣れてくると、すぐに他のどんな見方にも満足できなくなる。純粋に物質主義的な観察者にはどうしようもないほど絡まってしまったように見える存在という名の糸は、もつれをほどかれまっすぐになる。その結果、新たな理解が全世界に光明を投ずる。苦痛と喜びとを意のままに負わせる勝手気ままで無慈悲な創造主は、人生の舞台から姿を消す。それでよいのだ。そんな創造主は本当に無用な登場人物であり、さらに言えば周りから独断家に支えてもらわなければ舞台の上を役者の歩き方で歩くことすらできない、ただのワラ細工の人形なのだから。確かにこの世のある町か別の町に住むのと同じ原理に基づいて、人はこの世に生まれる。そのように多すぎるくらい言われているとすれば、なぜ自分はそうではないのか尋ねても差し支えがなかろう。物質主義者は賛成にも反対にも心を動かされないし、そのどちらも法廷では重要ではない。しかし私は議論の利益となるように、このことを断言するーー真剣に考えてみるために懐疑論者の正式な説に、たった一度でも戻ってみる人は誰もいなかったと。そうすることは、再び乳児の産着を着るようなことらしい。

 では、議論を進める上で、人は自分自身の創造主である強力な意識であり、自分自身の中に潜在的にすべての生命があり、最高の目標さえもあるということを認めて、彼自身が彼の苦しみをもたらすと考えよう。

 苦痛が不均衡な成長の結果であり、奇形な発達の結果であり、さまざまの点で欠陥のある前進の結果であるならば、人はそのことから教訓を学び、成長のために(幸福と)同程度に苦痛を受け取るべきではないだろうか。

 私には、この問いに対する答えがまるで、それこそが人類の学んでいる真の教訓であるように思われる。たぶん、人を無秩序の中の偶然の産物とみなすにせよ、または天国か地獄へ急ぐ暴君の馬車の、冷酷な車輪に縛りつけられた魂とみなすにせよ、その声明はありきたりな思考からしてみれば大胆すぎるように見えるだろう。だがこのような考え方は結局、最終的な決定者は両親であり、実際に両親こそが自分の世界の神か悪魔だと思っている子供と同じ考え方である。子供は育つにつれ、それは単純に成人かどうかの問題であることと、自分も他の人と同じ生物の中の王であることを知って、この考えを捨てる。

 それが人類である。己れの世界の王様、己れの運命の決定者である。そしてそれを否定する人はいない。神意と運命こそが決定者だと言う人は、立ち止まってよく考えたことがないのだ。

 逃れられぬものである運命は、実に人類のために、そして個性のために存在する。しかし、誰が自分自身に救われることを運命づけることができるのか? 運命づけられたことに喜んだり苦しめられたりする人間以外に、運命を定める者の存在がいるという手がかりは、天にも地にもない。私たちは自分自身の性質をほんの少ししか知らない。私たちは自分の神聖な役割にまるで気づかない。だからどのくらい多く、あるいはどのくらい少なく、自分に運命を負わせているのかを知ることはまだできない。だが、ともかくこのことは知っているーー証明できる知覚の及ぶ範囲には、運命を定める者の存在の手がかりは見つかっていないことを。しかし、もし周りの人生にほんの少しでも注意を向け、人が自分の未来のために行動するのを見るならば、私たちはすぐにこのパワーに、効力のある現実の力として気づく。たとえ私たちの見える範囲が非常に限られていても、それは目に見える。

 全くの俗人は、人生に関して事実上、明らかに最良の観察者であり思想家である。なぜなら、いかなる先入観によっても盲目にされていないからである。その人は、種をまいた人が刈り取るであろうことを常に発見し信じるだろう。そしてよく考えると次のことはとても明白な事実である。より広い目で見てみると、あらゆる人生を含め人類に、わざとつきまとうように見える恐ろしいネメシス(訳注:因果応報の女神)は、喜びのただ中に厳然と苦痛をもたらす。偉大なギリシアの詩人たちは、この苦痛の出現をはっきりと見て、その観察を記録したものを、より若くより見る目のない、ひどい観察者である私たちにくれた。西洋のいたる所で育った物質主義の人間が、年上の詩人ーー昔の詩人の手助けなしで、人生にこの厳しい要素があることを、おのずと悟ったとは考えられない。ちなみに、このことから古典の研究のある明確な価値に気づくかもしれないーー素晴らしい古代人たちが詩に表した、人生についての偉大な概念と事実は、彼らの文学から完全には失われていないだろうことを。確かに、世界は再び栄え、過去と比べてより偉大な思考とより深い発見が、未来の全盛期の人たちの栄光となるであろう。だが、遠い未来の時代が来るまでは、私たちの失う宝物はあまりに高価すぎて値がつけられないだろう。

 一見したところ明確にこの概念のあり方を否定するように見える、この問題点の一局面がある。それは、明らかに純粋に肉体が口のきけない存在たち、つまり幼い子供、白痴、動物たちの苦しみであり、その存在たちが苦しみを切り抜けるために、いかなる種類の知識でもそれから得られる力を、必死で求めることである。

 これに関し心の中に起こるであろう窮境は、肉体と魂の分離という擁護の余地のない概念から生じる。体と頭は二人組の相棒であり、互いに影響し合い手を取り合ってともに生きるということが、物質的な人生だけを見る人たち(および特に肉体を診る医者)のすべてに、真実と思われている。彼らはそれ以上、根拠を確かめようとはしないため、何も知ることがない。頭と体は明らかに、手や足と同じような装置にすぎないことを忘れている。これらの構造のすべてを使うことの裏に、内的人間つまり魂がある。そしてこのことは、私たちが知るすべての存在に関して本当であるのと同じように、人間自身に関してもどうやら本当らしい。存在するものの魂のものさし上に、因果律が終わるまたは終わることのできる一点を見つけることはできない。なまくらな牡蠣にはその不活発な人生を過ごすことを選ばせる何かがあるはずである。つまり背後にある魂以外には何も、牡蠣にそうさせることはできない。いったいそれ以外にどこで、どうしていられるだろうか? 何らかの名で呼ばれる、とてもあり得ない創造主が介入しない限り、そうである。

 それはなぜかと言うと、人は責任を受け入れるか負うことに対し、とても怠惰でやる気がないために、このその場しのぎのはかない創造主を頼るからである。それは確かにはかない創造主だ。私たちの間に居場所を見出す特別な頭脳の働きがある間だけしか、居続けることができないからだ。人がこの偽の精神生活から落後する時、必然的に魔法のランプもそれから呪文で呼び出した援助という快い幻影も共に後に残される。それは、他の感覚には全く似ていない、むき出しのままの感覚であるに違いない。同様に、肉と血と権力という非現実的な幽霊を受け入れず拒むことで、この嫌な経験から自分自身を救えるようである。人は創造主の両肩に、自分が罪を犯す可能性と救われる可能性の両方への義務を負わせたがるが、それを負うべきは自分の真の生命、真の意識だ。このように自分自身を満足させるのは、お粗末な創造主だし、その人は操り人形の世界に喜び、糸で引っ張られて楽しんでいるのだ。このようなことを楽しめるとしたら、その人はまだ子供のままであるに違いない。なんと言っても、それはその通りである。私たちの内なる神は子供のままであって、その高い地位を認知することを拒むのである。もし本当に人の魂が、肉体に従って成長の法則、衰弱の法則、再生の法則に支配されているならば、盲目的であっても不思議ではない。しかし明らかにそうではない。人の魂は、形態や体を与える生命の指示下にあり、魂そのものはこれらの事に影響されない。ーー清らかで純粋な炎がともされる所ならどこででも燃える生命の、指示下にである。魂は時間により変化したり影響されることはあり得ず、成長と衰退の道理上、先輩である。魂は神の唯一の玉座である原初の場所にある。その場所は存在の中心点であり、そこには人間の心臓のまん中にあるのと同じ生命の恒久不変の地点がある。対等な成長ーー最初は認識され、それから放射状に広がる多くの経験の線の対等な成長ーーにより、人間はついに黄金の門へ到達し、掛け金を外すことができるようになる。進歩の過程とは、自分自身の中の神を徐々に認識することだ。神性が意識的にその正しい栄光へと戻った時、ゴールに到達したのである。

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4章 苦痛の意義 Ⅰ

 深く生命の本質をのぞくと、その本質から人の人生を暗くしようと苦痛がやって来る。苦痛という名の魔女は、いつでも入口のところにいて、彼女の背後には絶望が立っている。

 このやつれた姿の二人は何者で、なぜ私たちを絶えず追って来ることを許されたのだろう?

 それを許したのは私たち自身だ。私たちが体に行動することを許可したり指示したりするのと同じように、あの魔女たちに絶えず追って来るよう指示したのだ。しかも、無意識に。だが科学的な実験と調査により、私たちは肉体の生活についていろいろなことを知り、そして霊的生活に関しても似た方法を用いて多くの成果を得られるかのように思っている。

 苦痛が生じ、弱まり、粉々に砕け、滅する。十分に離れた見地から見ると、苦痛は薬に、ナイフに、武器に、毒に、代わるがわる変わって見えてくる。それは道具である。どうやら使われるものである。知りたいのは、それを使う者は誰かということだ。私たち自身の中のどの部分が、休息することを嫌って、この道具があるかと尋ね求めるのだろうか?

 薬は医者に使われ、ナイフは外科医に使われる。しかし破壊の兵器は敵、憎む者によって使われる。

 それならば、魂の利益のためにそれを使うか、あるいは使うことを望むだけでなく、自分自身の中で争い、内なる至聖所の中で戦いをするためにそれを使うのだろうか?どうもそのようだ。人間の意思は苦痛を見てリラックスしてしまったら、苦痛の存在する状態において、生命を維持できなくなるであろうからだ。どうして人は自分自身を傷つけることを望むのだろうか?

 その問いに対する答えは、一目でわかるだろう。その人はおもに喜びを欲し、戦いの場でもその喜びを意欲的に保ち続けようとするのだが、そこではその喜びが、彼の所有の苦痛と戦い、常に喜びが、勝って彼を喜びの待つ家に連れ帰りたいと望んでいるのだ。これは人の永遠の性質として、その人の状態を成す。彼自身は、苦痛は喜びと相互に統治する支配者であることと、戦いをしても絶対に勝てないだろうことを、心の中では知っているのである。表面的な観察者は、人は避けられないことを甘んじて受けるものだ、という結論を下す。しかしそれは議論するに値しない間違った考えだ。もう少し真剣に考えると、人間は自分の建設的(ポジティブ)な性質を修練せずに存在することは全くできないとわかる。このポジティブな性質の修練をして生きることは、人が選んだ状態なのだという仮定は、筋が通っている。

 なるほど、それなら人が苦痛を望むということを議論するために聞くが、なぜ人は自分自身を悩ませる何かをのぞむのだろうか?

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3章III

  では、目に見えぬものに打ち勝つことに関心を向けるという最初の困難がどんなものか考えてみよう。私たちの低俗で濃密な感覚は、普通の意味での「対象」にだけ注意を向ける。だが人生の普通の領域のすぐ向こうに、より微細な感覚器官に訴える、微細な感覚作用がある。ここにおいて私たちは必要な足がかりへの最初の糸口を見出す。この見地つまりたくさんの光線(rays)や線(lines)が集中する一点のような見地から、人はものを見るようになる。さらに、もしその人が生命の最も単純な形態から自分自身を切り離す勇気あるいは関心があるのなら、この一点と、これらの線や光線に沿うわずかな距離の道を探検する中で、彼の全存在が広がって大きくなり、成長し始める。ただし明らかなことは、もしこの説明を正確に正しいものとして受け入れるならば、主要な意義あるポイントは、一つの線に沿って探検を継続し、別の線に沿ってするのではないということだ。そうでないなら、結果はおぞましく変形したものとなるに違いない。私たちはみな、次のことを知っている。森にある一本の木に、威風堂々として立派な風采があるとしよう。その木には呼吸するに十分な空気があり、根を伸ばす余地があり、絶えざるタスクを成し遂げていく内的な活力があったから、立派に育ったのだ。そのことは完璧な自然界の成長の法則に支配されている。そしてこの事実から独特の畏敬の念が生じる。
 どうすれば内なる人間を認識でき、その成長を観察し、養うことができるだろうか?
私たちが道しるべを手に入れたこの道を、ほんの少しだけ先に行ってみよう。でも言葉はきっとすぐに役に立たなくなるだろう。
 私たちは皆それぞれ、助けなしで一人旅をする。旅人は一人で山を登るにつれ、山頂に近づく。そこではロバは重荷を運んでくれない。低俗で濃密な感覚も、その感覚に触れるものも、旅人を助けてはくれない。しかし言葉が少しの距離の道づれになってくれるかもしれない。

 舌には食べ物の甘さや辛さがわかる。感覚が最もシンプルな状態の人にとって、そのことには甘さ以上の何の概念もない。しかしより微細な本質、同じ感覚がより高い次元に置かれたものは、別の認識に達する。美しい女性の優美さ、あるいは友達の微笑みの優しさは、内的な感覚が少ししかない人ーーあまり感動しない人ーーにさえ、元気づけになる。黄金の門の錠を解く人には、さわやかな川が湧き出し、小川の源泉からあらゆる安逸が生じ、それが彼の遺産の一部となる。

 しかしこの源流の噴き出す水を飲む前に、あるいは他の湧き水が流れて来て、水源が見つかる前に、ハートから重荷が取り除かれるべきである。ハートを押さえつけて強さが現れないようにしている鉄の棒を。

 自然界の水源から流れ来るさわやかな水の流れ、つまりあらゆる形態の生命の流れを知る人は、ハートを押さえつけるものから持ち上げ、彼自身を何の束縛もない状態へと引き上げたのだ。彼は自分が大きな全体の一部分であることを知っている。そして彼の遺産はこの知識の中にある。それは次のことによって成される。つまり大人になって自分の支配者となった彼が、人格の中心に自由意志によって自分自身を縛りつけている束縛を、バラバラに断ち切ることでだ。彼が外へと大きく広がるにつれ、そして肉体を与えられた地点を中心とするこの広がりの軌跡に沿って多種な経験を積むにつれて、自分がすべての生命と接触したことを発見する。そのすべての生命を彼自身の中に、まるごと全部含んでいるのである。それから彼は自分自身を、善と呼ばれている大いなる力へと手放してしまう。彼は魂の手で善をしっかりとつかむ。そして彼はすみやかに、大いなる、真の生命の広い海へと運ばれて行く。その海とは何であろう? 今の生活で私たちは物質の影しか知らない。誰しも、愛することに飽きることが付き物である。誰しも、ワインを飲めばまた飲みたくなる。飢えと、暗い空を切望することで、この世は敵意に満ちる。私たちに必要なのは、生命の実を結ぶ大地、常に光あふれる空である。前向き(ポジティブ)に必要とすることで、私たちはそれを確かに見出だすだろう。

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3章II

 「創造する」という言葉はよく平凡な知性に、何もない無から徐々に進化させる概念を伝える。明らかにそれはそのような意味ではない。私たちは世界がそこから生まれてきたところの混沌により創造する創造者を用意するよう精神的に強いられる。社会生活の典型的な生産者である土を耕す人は、自分の物質を、地面を、空を、雨を、太陽を、そして地中にまく種を、持たねばならない。無からは無しか生み出せない。自然界は真空(ボイド)からは生まれない。物質が、世界に対する私たちの欲望により形づくられた母なる自然の向こうに、背後に、内部に、またそこから、発生し存在している。種と、種を成長させる地と空気と水は、行為のあらゆる段階に存在するということは、明白な事実である。発明家と話をしてみると、彼が今していることのずっと先のことがわかると知るだろう。彼は常に、言葉に表現できないけれど他にもやらねばならないことを知ることができる。言葉に表現できない理由は、彼がまだそれをモノとして世に生み出していないからである。その目に見えないモノの知識は詩という形でより一層はっきりとする。そしてその意識の一部を他の人たちと分かち合うまでは、彼はそれをうまく表現できない。だが彼の偉大さに正確に見合う分だけ、彼は普通の人には存在し得ると信じることさえできない意識の中に住まう。その意識は、より大きな世界に住む意識であり、より広い大気の中で呼吸している。その広い大気は、より広い地と空を見守り、巨大に成長した植物から種をもぎ取る。

 手を伸ばす必要があるのは、この意識の場にである。この意識の場が天才のために取ってあるのではないことは、殉教者や英雄たちが発見しその中に住んだという事実により示される。それは天才のためだけにあるのではなく、偉大な魂を持つ人々だけがそれを見つけることができるのである。

 この事実にがっかりする必要はない。人間の偉大さは生まれつきのものであると、たいていの人が思っている。この考えは思考が望んだ結果に違いなく、自然界の事実に対し盲目であることの結果である。偉大さは成長によってだけ達せられる。そのことは絶えず実証されている。山々でさえ、そして堅い天体そのものでさえ、成長という方法によって偉大なのだ。原子の寄せ集めという物質的な状態にとっては、それは奇妙なことであるが。すべての存在の形態に本来備わっている意識は、より進歩した生命の形態になってゆくにつれてより活動的になり、そうなるにつれて蓄積によるのではなく吸収(同化)によって進歩の力を手に入れる。この特別な観点(実は長期間保つことが難しい観点で、私たちは習慣的に人生を面で考え、大いなる進化の線(ライン)とつながり、それを通って経験するということを忘れる)から見ると、次のように考えることは理にかなっているということがすぐにわかるだろう。つまり、私たちは現在の立ち位置からさらに先へ前進するにつれて、吸収(同化)により成長する力はもっと大きくなるだろう。そして多分、成長の仕方はさらに早く、容易に、無意識的になるだろう。目を開いて見るならば、宇宙は実のところ、素晴らしい徴候でいっぱいである。最初に必要なことであり、最初の困難であることは、この “目を開く” ということである。私たちは手の届く近くだけを見てすぐに満足してしまう傾向がある。天才は本質的な特徴として、すぐそこにある果物にいくぶん無関心であり、遠くの丘の上にある果物を切望する。実のところ天才は切望を誘発するものに、接触する必要はない。この肉体感覚の助けなしに感知する遠くの果物が、食欲をそそる食物よりも、より精妙でよりおいしいということを天才は知っている。そしてそれからどれほど報酬の得られることか! 天才がその果物を食べると、どれほど甘くておいしいことか! そしてどれほど新しい生命の感覚が彼に芽生えることか! 彼は、その味を感じるための精妙な感覚があることに気づく。内なる人間の生命を養う感覚である。そして黄金の門の掛け金を外すのは、内なる人間の強さによるのであり、それだけにかかっているのだ、と知る。

実のところ黄金の門の存在は、内なる人間の成長と発達だけによるのであり、門から入って行けるのも、門に気づくことさえも、それらによるのである。人は肉体的な感覚に満足し、精妙な感覚に注意を払わないうちは、門は文字どおり目に見えないままだ。田舎者にとって知的な人生への入り口が絶滅や非存在をもたらすもののようであるのと同じく、粗野な感覚の人にとって、たとえその人が知的に活発な人生を送っているとしても、かなたにあるのは絶滅と非存在であり、それはひとえにその人が本を開いて読まないからなのだ。

 学者の蔵書をよごす召使いには、その蔵書全巻は価値がない。その人も単なる召使いでなく学者であらぬ限り、よごさないと保証はできないようだ。全くの怠惰を外に締め出して、永遠の間中、注目していることは可能である。全くの怠惰とは、懐疑心という精神的な怠惰のことで、ついに人間はうぬぼれることを覚える。それは疑念と呼ばれ、理屈の影響下にあると言われる。その状態は、うぬぼれが正当化される状態でもなく、東洋の快楽主義者が食べ物を食べるのに自分で口へ運ぶことさえしない状態とも違う。「理にかなっている」人は行動に価値を見出さないし、それがゆえに行動しない。懐疑論者もそうである。精神的にも、霊的にも、肉体的にも、不活動の状態に腐敗がつき従う。

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3章 最初の努力 Ⅰ

 これは容易に見てとれることだが、人生上あるいは経験上に、ほかの時よりも事物の精髄(ソウル)に近くなる地点というものはない。磨き上げられた輝きを放ちながら満ちあふれている事物の精髄、または崇高な本質はこの大気に存在し、門の向こうでそれ自身を色づけする。しかし、この精髄はその真の性質により普遍的であるはずだという事実を、すぐに知ることのできる道は一つもない。黄金の門は特別な場所へ入って行く入り口ではない。特別な場所から出て行くための出口なのである。己の限界から解き放たれる時に、人はそれらの門を通り抜ける。そうすることが最も可能となる時に、人は闇の中に自分をとどめておく殻を破り、永遠のものを隠す覆いを引きはがすだろう。その可能となる時は、自分で予期せぬ時にこそ容易にやって来るだろう。人々は精神的な助けによって殻から脱出せんと求め行き、到達できないと見えるものにどうやって到達するのかということに関し、気まぐれで制限がある諸法則に屈するのだ。大勢の人は確かに、宗教という手段で切り抜けることを望み、思いと感情に行き場を与える代わりに、まるで幾時代もの間も、はまった型から外れることを可能にするには足りないと言わんばかりに、強く固定されてしまっている! ある人たちは純粋な知的能力により道は見つかると信じる。このような人たちのおかげで人類は完全な感覚への沈没を防ぐ哲学や形而上学を有する。だが人類の列の最後尾の人(訳:つまり最近の人)は思考によってのみ生きようとするので、空想の中に住む。そして現実の食べ物は他人にせがむのである。形而上学や超越論的哲学者に負うところは大きい。しかし彼らにとことんまでついて行き、脳が一器官として使うものにすぎないことを忘れ、議論の鈍い車輪が永遠に軸の周りを回っているような場所に自分がとどまっていることに気づくであろう。いまだにどこへも行かず何の積み荷も運べない車輪のところにである。

 美徳(あるいは人それぞれに美徳と思われるもの、道徳性と清らかさに対するその人自身の特別な基準)は、それを天界に至る道として守り実践する人々が持つものである。恐らくそれは、現代の快楽主義者にとっての、道徳的な享楽である。きれいな生活と立派な思想で食通になることは、味わいや視覚や音の快楽に劣らずたやすい。有徳な人はもちろん大酒飲みも、その意図するものは満足感である。たとえ、ある人の生活が驚くほど禁欲的で自己犠牲的だったとしても、彼の一瞬の思いが示すのは、見たところ英雄的な道を追いかける中で快楽を追求しているのだということだ。その甘い味に満足して、快楽は魅力を呈し、他人のおかげで自分が楽しむよりむしろ自分が他人を喜ばせることに満足する。もうその清らかな生活と高尚な思考はその人たちにとって最終的な状態ではなく、そのことは他の形態の喜びと同じである。そしてそれらの中に心の安らぎを見出そうと努める人は、努力の度を増し、絶えずそれを繰り返すーーすべてかいのないことだ。その人はまさに緑の植物であり、美しい葉っぱをしているが、大切なのは葉っぱではない。もし彼が知りもしないゴールにもう到着したと信じて、盲目的な試みを続けるならば、善行をせざるを得ない、そして美徳の行為も愛の輝きのないものとなる、憂鬱な場所に自分が置かれていることに気づく。清い生活は、手を清潔にするのと同じように良いーーそうしないと人はおぞましい者となる。しかし美徳はもう私たちの本質の他の部分以上のものではないということがわかる。霊は物質から発するガスではない。ある物質の因子を無理やり用い安らぎを失うことで未来を創造することはできない。霊は大いなる生命であり、物質は霊の上で安らいでいる。それはちょうど自由な流動体のエーテル上にある岩でできた世界のようだ。私たちは古い殻を破る時はいつも、自分自身が素晴らしい向こう岸にいるのがわかる。その岸はかつてワーズワースが見た、黄金の門の輝きがある。そこへ入って行く時、すべての現存するものはーー美徳も悪徳も、思考も感覚も、一様に消え失せるだろう。自分がまいた種を自分で刈り取るということも、もちろん真実であるに違いない。物質的生活の美徳を持ち続ける力はその人にはもうない。それでも、その人の善行の香気は罪と残酷さの匂いよりもはるかに良い香りの捧げ物である。しかし、美徳を実行することによって、その人は一つの型、一つの変えられない流儀に自分をはめこみ、縛り付けてしまうかもしれず、それがあまりに揺るぎないために、死は自分を自由にしてくれるということを心に思い描くことができないし、広大で輝かしい海ーーつまり黄金の門の重くて動かない掛け金を外すに十分な力ーーへと自分自身を投げ出すことができない。そして時に、ひどい悪事を犯し利己的な満足という猛烈な火で全性質が傷だらけ且つ真っ黒になった人は、とうとう完全に燃え尽きて炭になってしまうため、激情の真の活力から火が飛び出て行ってしまう。このことは、少なくともただの苦行者や哲学者よりも、門の入り口に達した人のほうに起きやすいだろう。

 だが門に達するのはたやすく、門を通り抜けるのに必要な強さがなくともたどり着ける。さらに言えば、たどり着くことだけが罪人の望むことのできるすべてであり、それは彼自身の魂の見地からは死の到来により達せられる。これは少なくともその通りに思える。彼の状態はネガティブだから必然的にそうなのである。黄金の門の掛け金を外す人は、自分自身の力強い手でそうせねばならず、その際完全にポジティブであらねばならない。このことを類推により見ることができる。人生における新たなことのすべて、新たな一歩や成長において、意志を最も支配的にして完全にする訓練が必要である。実際多くの場合、たとえ長所を持っていたとしても、そしてたとえある程度の意志が使えたとしても、最終的な、揺るぎない決意に欠けていることから、彼は望むものを手に入れることに完全に失敗するだろう。世界中のどの教育も、人をその時代の知的栄光に仕立てられないだろう、たとえその人の力が大きくても。その人が完成の花をつかもうと断固として望まない限り、無味乾燥な物知りや、言葉をたくみに扱う人や、機械論的な思考の達人や、ただの記憶の車輪にしかなれないだろう。このポジティブな資質を持っている人は、状況が逆らおうとも立ち上がり、自然な栄養物である思考の潮流を知って把握し、自分が達せんと志した場所に、ついには巨人として立つだろう。このことは現実に、人生のあらゆる方面で毎日見られる。単に自分の性質のドグマティックで限られた部分を粉砕したいという熱情によってだけでは、これらの偉大な門をくぐり行くのは不可能に思える。しかし、偏見で目が見えなくなっていない限り、そして思考の車輪にしがみついていない限り、そして魂の車輪が人生の深い溝にはまってしまっていない限り、ひとたびポジティブな意志が彼の中に生じたならば、しばらく彼は希望を失わずに、大変離れたところにある掛け金を外そうと手を伸ばすだろう。

 疑問の余地なく、人生上これまで見た中で最も厄介な仕事は、まさに今のこの話題ーー人をすべての偏見から解放すること、すべての結晶化した思考や感情から解き放つこと、すべての制限から自由にすること、そして内なるポジティブな意志を発達させることだ。それはあまりにも奇跡的すぎる。普通の生活の中でポジティブな意志は常に結晶化した考え方と結びつくであろうからだ。実現するにはあまりにも奇跡的すぎるように見える多くのことが、まだ為されていない。現在の人間に人生という限られた経験の場が与えられているのに、である。困難は落胆する言い訳にできないことを過去のすべてが示す。まして絶望の言い訳には。そうでなければ世界には多くの驚くべき文明がなかっただろう。もっと真剣にものごとを考えよう。それゆえ、ひとたび心が思い描いたことならば、不可能ではないのだ。

 最初の大きな困難は、目に見えない世界に関心を向けることである。だがそれは毎日やっていることで、私たちは自分の行為を導くために、どのように自分が行為するかを観察しさえすればよい。どの発明家も、目に見えないものにしっかりと関心を向ける。そして彼が成功するか失敗するかは、もっぱらその関心の強さにかかっている。詩人は自分の詩を創作する瞬間を眺めて、目に見えないものを見、音のないものを聞くと言う。

 恐らくこの詩人の類推に、知られざる領域(実にその地は「行ったら最後、誰も戻って来ない」目的地)への旅が成功するために船の帆をどうすべきかが含まれている。このことは発明家や、人間の普通の精神的・肉体的レベルを超えたところへ手を伸ばすすべての人に当てはまる。船の帆は「創造」(クリエイション)という言葉にある。

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 ひとたび黄金の門の意義をよく考えたら、それらの門を通って行く以外の人生の形態はないということが明らかになる。それらの門は、大人になるということの花が実を結ぶ場所にだけ通じている。母なる自然界を必要とする人たちにとって、それは最も優しいお母さんである。そのお母さんは決して子供たちにうんざりしたり、人数が減ることを望んだりしない。そして大勢の群衆に向かって腕を広く広げている。その大勢の群衆は生まれて肉体をまとって存在することを望む。彼らがそうすることを望み続ける間は、自然界の母は微笑んで歓迎し続ける。ではなぜ彼女は、ある人たちには戸を閉ざさねばならないのだろうか? 彼女のハートの中である人の人生がまだ尽きていない時に、その魂の百番目の部分がたとえばその地点で発見した感覚を熱望したとして、その魂の人生を他所へ追いやってしまう理由などあり得ようか? 欲望の種は確実に、まき手がまいた場所に芽を出す。それはもっともなことに思われる。さらにインド人の精神の基礎を成す生まれ変わりや何度も肉体化身する理論は見たところ自明の理であり、もはや実例など必要としない東洋の思想のよく知られた一部分である。インド人は、西洋人がその日一日は一生を構成すると知っているのと同じように、生まれ変わりの理論を知っている。この知識の確実性は東洋人の持つ自然の法則という認識の中に存在する。自然の法則は、魂の存在の大いなる流れを統制する。その認識は単純に思考の習慣により得られるものである。東洋人の多くの精神(マインド)を占めていることは、西洋では思いもよらないこととみなされている。このように東洋人は人類の霊的成長という偉大な花を咲かせたのだ。百万人もの人の精神的模範として、仏陀は黄金の門を通り抜けた。そして群衆が入り口のところで懇願したので、仏陀は言葉を残して行くことができた。それらの言葉は、黄金の門が開くであろうことを示すものであった。

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