黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 悲しみと倦怠感から生じたこの質問は、見たところ本質的に一九世紀の精神の一部分であるように思えるが、実際はすべての時代にわたって問われてきたに違いない。歴史を理知的にさかのぼってみると、その問いは文明の花が満開に咲いた時、そしてその花びらがどうにか散らずに持ちこたえている時に、投げかけられる問いであることは疑いない。人間の生得の部分はその時、最高の頂点に達した。彼は困難の丘を、石を押し転がしながら登る。頂上に達した時、また石が転がり落ちるのを見るためだけに。――エジプトやローマやギリシアのように。なぜこの無益な骨折りをするのか? 言葉にならない疲労と病気をもたらすだけでは足りないというのか? 再び落ちぶれるのを見るためだけに、ずっと達成しつづけるのか? だがそれが、私たちの限られた知識の及ぶ限り、人が歴史を通じて為してきたことである。一つの頂点がある。それは人が多大な、そして団結した努力によって達成する。人の本質の物質的、精神的、知的な部分すべての大いなる、見事な開花がそこにはある。感覚を喜ばせる完成の最高点に達すると、彼の支配力は弱まり、権力が減少し、彼は失望と飽き飽きすることにより、バーバリズム(未開状態)へと後退する。なぜ彼は到達した丘の頂上にとどまらず、山々の向こうへと目を向けず、それらのもっと高い山々に登ろうと決意しないのだろうか? それは無知だからだ。きらきら光る遠くの山の輝きを見て、目がくらんでぼう然と目を伏せ、休もうとして慣れ親しんだ丘の日影へ引き返す。けれども時々この輝きをじっと見つめる勇気のある人がいて、その光の中にある形を見て取る。詩人、賢人、思想家、師匠――これらすべての「人類の年長者たち」は時々この光景を見て、そのうち何人かが当惑するほどきらめく黄金の門の輪郭を知った。

 黄金の門は私たちにおのれ自身の性質の聖域へ入って行くことを許し、自分の生命の力が出で来る場所、自分が人生という神殿の祭司である所へと通す。これらの黄金の門をくぐって入って行くことが可能であることを、ある一人か二人の人が示してくれた。プラトンシェークスピア、その他少数の強者たちが門を通って行き、門のこちら側で私たちに秘められた言語で語ってくれた。強者は門の入口から中へ入ると、もう門の外で人々に話さない。門の外にいる時に彼が話す言葉さえも神秘に満ち、ベールで覆い隠され深遠であるため、彼の歩んだ道をたどる人たちだけが自分自身の内なる光を見ることができる。

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 おそらく今と同じようにこれまでも、かなり多くの人が人生の重荷から逃れるために自殺しようとしてきた。そうすることで完全に忘れ去ることができると確信しているから、そうするのだ。しかし存在の仕方が変化するだけであるとためらい、そしておそらくもっと激しい苦痛の状態があるかもしれないと躊躇し、毒を飲むのをためらう人は、未知の世界の優しさを信用して荒々しく自分自身をそこへ放り出す軽率な魂たちよりも、理解のある人である。忘却の川* は死の川とは全く違う。そして誕生の法則が作用している限り、人類が死によって絶滅することはあり得ない。大酒飲みが大瓶のワインにまた戻って来るように、人はこの世の人生にまた戻って来る――自分ではなぜそうなるのかわからないままで。ただ、ちょうど大酒飲みがワインによって生じた感覚を望むように、人は人生によってもたらされる感覚を望むということだけはわかる。まことの忘却の川は私たちの意識から遠く離れたところにある。そこに到達するには上記のような意識――感覚と感情でいっぱいになりたいという願望――を持って存在することを、やめなければならない。

 なぜ人間という生き物は、そこから生まれて来たところの、大いなる沈黙の子宮の中へ戻らず、人生の推進力が及ぶ以前の安らかな胎児のように平穏の中にとどまらないのだろうか。それは、快楽と苦痛、喜びと悲しみ、怒りと愛を、渇望するからである。間違った人は、自分が生きることへの願望がないと主張するだろう。それでいて生きていることにより、その主張が嘘であることを証明する。誰も無理やり生きさせることはできない。ガレー船に奴隷はつながれても、命を無理に体とつなぐことはできない。人体の素晴らしい構造は、火がつかないエンジンと同じように、生きる意志がなくなってしまったら役に立たない。――生きる意志は断固として維持され中断しない。そして私たちが課された任務を遂行することを可能にする。さもなければ失望に満たされ、生まれてすぐに死んでしまう。このようなすごい努力を不平も言わず、まさに喜んで続けるのも、私たちがおびただしい感覚の中で存在するためであろう。

 そしてさらに、だいたいの人が目標という概念もなく、またはどちらの方向に進んでいるかわからないまま、意図も目当てもなしに進み続ける。この目的のないことに最初に気づき、自分が大きくて絶え間ない努力で働いていることをかすかに自覚し、それらの努力がどの目標に向けられているかについて全く考えがないことに気づいた時、人はみじめな一九世紀の思潮に下降してしまう。その人は道に迷って当惑し、希望を失う。懐疑的になり、幻滅し、疲れ、答えのないように見える次の質問をする。このような未知で理解の及ばぬような結末のために生きるのは本当に無駄ではないだろうか、と。だが、その結末は理解が及ばないであろうか? 少なくとも、もっと小さな質問には答えがあるだろう、つまり目標がある方向を推測することはできないだろうか? という質問には。

 

* 忘却の川、レテ。ギリシア神話で黄泉の国にあり、この川の水を飲むと浮き世のことはすべて忘れるという。(ランダムハウス英和大辞典)

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1章 喜びの探求 Ⅰ

 私たちはみな、苦痛と呼ばれる厳しい状況についてよく知っている。不思議なことに、最初にそう思われるように、苦痛ははっきりとした方法をとらせ、確固たる、とぎれることのない粘り強さを追求させる。苦痛が完全にずっと続くことはない。そうでなければ人は生きるのをやめねばならないだろう。しかし不断の努力は中断しない。いつも影のような姿をした絶望が人の後ろに立っていて、あまりにも長い間気づかれないなら、その恐ろしい指で今にも触れようとしている。何がこのぞっとするほど恐ろしい影に、私たちが生まれた時から死ぬ時まで絶えずつきまとう権利を与えたのか? 何がその影に、常にドアを少し開けたままにしていて、ちょうどふさわしい時に中に入って来ようといつも待ち構えている権利を与えたのか? 最も偉大な思想家がその常に生命を持った影の前に、ついに屈し倒れる。その人は、思慮分別があり次の事実がわかっている思想家にすぎない。つまり影に抵抗はできず、そして他のすべての人々と同じようにいつかはそれに苦しまなければならないのだという事実をである。この苦しみや悲しみは、人々の遺産の一部である。だが何ものにも苦しめられないでいようと決心する人は、自分を深くて冷たい利己主義にすっぽり包みこんでしまう。そのように包みこんでしまうことで、自分を苦しみから守るかもしれない。そのことは、喜びから切り離してしまうことでもあるだろう。平和がこの世で見つかることになっているなら、あるいは喜びが人生で見出せることになっているなら、それは感受性の門を閉ざすことによるのではない。感受性は最も高いところへ、そして存在の最も鮮明な部分へ、私達に入って行かせるものだ。肉体によって感覚を得る時、その感覚によって、この姿で生きようという気になる。どんな人でも、呼吸が満足感をもたらさない限り、わざわざ呼吸したいなどとは思いもしない。人生の一瞬一瞬の行為はどれも、それと同じである。たとえ苦痛の感覚があるとしても、喜ばしいがゆえに生きる。強く望むことは感覚による。他にも、無意識という深い海の経験と一つになるのも、人類が絶滅するだろうことも、そうである。もしあることが物質界の生活で起こる事例なのだとしたら、間違いなく感情面の事例でもある。――感情、想像力、情緒。これらすべてのすばらしく繊細な構造は、脳の驚くべき記録のメカニズムによって、内的あるいは精妙な人間を作り上げる。感覚は喜びを得る。果てしなき一連の感覚が人の生涯である。人生上の試みにおいてたゆまず働くことを望む感覚は、滅ぼしてしまったら後に何も残らない。したがって苦痛の感覚を完全に取り除こうとする人は、そして喜びにも傷心にも同じ状態を保とうとする人は、生命のまさにおおもとを襲われ、その人自身の存在する目的を破壊してしまう。そしてそのことは、今のこの推論あるいは直観力が示す限り、すべての状態にあてはまり、東洋人が憧れるニルヴァーナにすら当てはまるに違いない。ニルヴァーナの状態はそもそもそれが状態であるとすれば、そして魂の消滅ではないならば、たいへん繊細で神秘的で鋭敏な感覚の一状態にすぎない。そして目下のところ判断できる、人生上の経験によれば、感覚の精妙さが増すということは、鮮明さが増すということである。その例として、感受性と想像力のある人が友人の誠実さと不誠実さを感じる度合いは、感覚という媒体を通して粗大な物質の性質を感じる度合いよりも大きい。したがって、思想家が感じることを拒絶しても、それから逃れて行く場所はない。遠く到達できないニルヴァーナという目標すらも、感じることから逃れられるものではない。その人はただ、生命の文化遺産、言い換えれば感覚の権利を、受け取ることを拒絶しているにすぎない。もし人を人たらしめるものを犠牲にすることを選ぶなら、ただ無意識で怠惰であることに甘んじているにほかならない――それに比べれば牡蠣の生活のほうが刺激的というものだ。

 しかしそのような「偉業」を成し遂げることのできる人は誰もいない。ある人が存在し続けているという事実は、次のことをはっきりと証明する。彼は感覚をまだ望んでおり、欲望が肉体的生活の中で喜ぶに違いない積極的で活発な形態を、望んでいるということを。禁欲というまがい物で自分自身をごまかそうとせず、放棄したところで何も欲望からその人を引き離さないだろうからそうしないのは、より現実的なことと思えるだろう。それが存在の大いなる謎を解明するためのはっきりとした、より期待できる方法ではないだろうか? その方法によって神秘を確固たるものとし、神秘それ自体を問うことができるのだ。もし喜びや苦しみから学べる教訓について、立ち止まってよく考えるならば、喜びや苦しみという結果の原因である未知の事柄によく思い当たるかもしれない。だが人々は内省あるいは人間性の細かい分析から急いで顔をそむけがちである。それこそがどの学派のメソッドにも引けを取らず理解できる人生の科学であるに違いないのだが。その科学は測り知れない未知のものであることは確かだ。それにその科学は推測されたものにすぎず、一人か二人のより進歩した思想家にほのめかされたにすぎない。科学の進歩とはすでに存在するものの発見に他ならない。そして人生の科学が普通の理解力の人にとって不思議で信じられないものであるのと同じように、化学は今、田舎の若者にとって不思議で信じられないものである。しかし、最も早く研究所の実験をかじってみて新たな知識の発展を知る先見者がいるかもしれず、きっといることだろう。彼らは今や、人々が用い、その利益にあずかるために自然から発展した知識の体系を見たのだ。

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黄金の門をくぐって 冒頭

 

思考の断片

 

 ある時、私が独りきりで執筆していると、不思議な訪問者が予告もなく書斎に入って来てそばに立った。その人が誰なのか、なぜそのように突然入って来たのか、尋ねることも忘れた。その人が黄金の門(*1) の話をし始めたからである。その人は知識を基に話した。その話の火が私に信仰として燃え移った。その言葉を、私は書き留めた。しかし、ああ、その人の話ほど明るく輝いて燃える火を、私の著書に期待することはできない。――M.C.

 

 

*1 黄金の門 本文を読み進めるうちに、それがどのような門なのか、その向こうにどんな道がのびているのか、示唆されていく。(訳者)

 

 

 

序文

 

 まことの思想家(philosopher)以外のふつうの人は、その人独自の人生観を持っている。最も無知な者は生きる目的についてある考えを持ち、その目的を最もラクに、最も賢い方法で達成する方法について、はっきりとした考えを持っている。世慣れた人はしばしば、自分自身でも無意識のうちに、自分が一流の思想家だと思っている。その人は最もわかりやすい特性の諸事に対処し、偶然起きる災害でその態度は粉々に打ち砕かれる。思考と想像力を働かせる人は、あることについてあまり確かな考えが持てず、自分自身が絶えずそのことについて明確な考えを組み立てられないことに気づく。その最も深遠で人間性にとって興味深い主題――人生についてである。本当の思想家とは、何についてもその肩書きを持つ権利が自分にあると主張しないし、人生の神秘には普通の思考では近付けないと知っている人であり、それはちょうど本当の科学者は科学の背後にある本質について完全に無知であることを認めるのと同じである。

 人生に目的として間違いなく存在する、大いなる根源を知的努力で理解することが可能なのか、あるいは何らかの思考方法があるのかどうか、という疑問に、普通の人は答えを見出せないだろう。けれども、ぼんやりと次のことを認識できる。目に見える結果の背後に原因があること、混沌を統治している秩序があって、不協和音に満ち広がってハーモニーへと昇華させること、熱望するこの世の魂たちを苦しめて、目に見えぬビジョンと知識でない知識を切望するに至らせるもののあることを。

 なぜ、すべての望みのはるかかなたにあるものを、内なる目が開かれる前に、熱望し、探し求めるのだろうか? なぜ、広大なパズルにはめることのできない手の中のパズルの断片を合わせて何らかの形が見えてこないか、やってみようとしないのか?