黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 この精神的苦痛と努力を無駄にすることへの治療法は何だろうか。それは一つだけだろうか。確かに人生にはロジックがあり、生きることを可能にする法則がある。そうでなければ混沌と狂気だけが到達可能な状態となろう。

 最初のカップ一杯の喜びを飲む時、魂は言語に絶する喜びに満たされる。その喜びは最初の、新鮮な感覚を伴っている。その人が二杯目のカップの中へ入れる一滴の毒は、もしその愚かさに固執するのなら、二倍にも三倍にもなり、ついにはカップの中身がすべて毒になるに違いない――毒は、繰り返しと増大への無知に基づく欲望である。このことはあらゆる類推から、明らかに死を意味する。子供は大人になる。不可避の代価を払うか馬鹿にならない限り、子供時代をとどめておいたり、子供の頃の喜びを再現したり強めたりできない。植物は地面に根を張り、葉を高く広げる。それから花を咲かせ、実をつける。根や葉を出すだけでずっと成長しなかったら、庭師に劣っていると思われ、捨てられてしまうに違いない。

 努力の道を選び、魂を鈍くする怠惰な眠りを拒む人は、いつも感知できるより微細な喜びを見つける。――その微細な喜びは、精妙な何かであり、単に感覚を喜ばせることがすべてである状態をますます脱して遠くかけ離れた何かである。この精妙なエッセンスは不老不死の霊薬であり、人を不死身にする。それを味わう人と、それがカップにたまるまで飲まない人は、熱望する目の前に人生が大きく広がり、世界が大きくなるのを見る。彼は愛する女性の中の魂に気づき、欲情は静寂となる。彼は思考の中に霊的真理のより微細な性質を見る。霊的真理は私たちの頭脳の仕組みを超えて作用し、さらに、彼は知的追求の堂々巡りに入り込むかわりに直観という鷲の広い背中にやすらい、澄んだ空高く舞い上がる。その空は偉大な詩人たちが洞察力を見つけた場所である。彼は自分の中に感覚の力、新鮮な空気と日光、食べ物とワイン、動くことと休むことを喜ぶ力、精妙な内なる人間の可能性、肉体や脳が死んでも死なないものを見る。芸術、音楽、光と美の喜び――人々が外形にすぎないとわかるまで繰り返すそれらの形態の中に、彼は黄金の門の栄光を見て、酔わせるものも強化するものも超えた新しい人生を見つけるためにそれをくぐり行く。肌を刺すような寒い山の空気がまさしく本物の活力で人を酔わせ、力づけるように。もし彼が不老不死の霊薬をカップの中に一滴ずつ注いできたなら、その場所の極端に強い空気を吸える強さを有し、そこに十分生きられる。それから肉体が生きようと死のうと、等しく彼はそのまま進んで行き、新しくてより微細な喜び、より完全で満足な経験を、吸って吐く一呼吸ごとに見つけるのだ。

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 怠惰は実のところ、人々の不幸の種である。アイルランドの粗野な者や世界に広く移り住んだジプシーが、とてつもなく怠惰なために堕落と貧困の中に暮らすのと同じように、粋人も同じ理由で感覚的な喜びの中に甘んじて暮らしている。上等なワインを飲み、おいしい食事を味わい、美しい女性や周囲の見事なものに、きらめくような楽しさを見聞きする――これらのことは、訓練された人にとっては教養のない人の無骨な満足や粗野な娯楽以上に良いものでもなく、最終的な目的地に達する喜びからすれば、より十分なものでもない。究極の地点というものはあり得ない。あらゆる生活の様式はどれも、一つの広大なグラデーションの連続になっているからだ。そして到達した文化の地点に立ち止まっていることに決めた人や、それ以上先へは進めないことを率直に認める人は、単に自分の怠惰の言い訳を、自由意思で表明しているのだ。もちろんジプシーは堕落と貧困の境遇に置かれていると明言できるかもしれず、実際そうであるが、ジプシーほど偉大な、最も教養ある人たちはいない。だが無知である間はそうなのだ。薄暗い心に光が差した瞬間、人のまるごと全体がそれへ向く。だからそれはより高い段階のことである。心に光が差し込むこと、光を入らせることの困難さだけがなおさら大きいことなのだ。アイルランドの粗野な者がウイスキーが大好きで飲んでいる間、倫理的・宗教的な大いなる諸法則を気にもかけない。その法則は人類を統治するとされており、人々に節制を守って生きるよう仕向ける。洗練されたグルメの人は微妙な味や最高の味わいしか気にかけない。彼は生粋の粗野な者と同じように、このような満足を超えた何かがあるという真実に気づかない。粗野な者のように彼は魂に重くのしかかる幻影に惑わされる。そして一度手に入れた、彼を楽しませる感覚的な喜びが、終わることのない繰り返しによってこの上ない満足をくれるものと思って、ついに狂気に達するまで繰り返す。大好きなワインの香りが、魂の中に入り込み毒する。彼には何の思考も残らず感覚的な願望だけが残る。彼は酒に狂って死ぬ人と同じ絶望的な状態にある。その大酒飲みが、狂気から何か良いものを得ただろうか? いいや、何もない。苦痛がついに喜びを完全に飲み込んでしまい、苦悩を終わらせるために死が介入して来る。自然の法則が重力の法則と同じくらい変えられぬものであることに無知でいつづけることへの最終的な報いにその人は苦しむ――自然の法則とは、人にじっとしていることを許さない法則である。カップ一杯の楽しみは二度は味わえない。二度目には、ほんの少しの毒か一滴のエリキサ(霊薬)か、どちらか一方がきっと入っている。

 同じ主張が知的な楽しみについてもあてはまる。同じ法則が働くのである。次のような人々がいる。同輩を超越し、抜きん出ている、その時代の精華とも言うべき知識人で、ついに破滅的な思考の回し車に食い込まれ、生来の魂の怠惰な性質に負けてしまい、自分自身を繰り返しなぐさめることでだまし始める。その後で、不毛と活力の欠如がやって来る。――中程度の生活が消え去ったちょうどその時、偉大な人々がよく入り込む、みじめで失望する状態である。若さの火、若い知識人の活力は、内的な無気力に打ち勝ち、人に思考の高みへと登らせ、精神の肺を山々の自由な空気で満たす。しかしその後、とうとう身体的な反動が始まる。脳の肉体的な構造は勢いの強さを失い、努力の緊張が緩み始める。肉体の若さは終わっているからである。今やその人は人生の階段の上で、その地点にまで上って来る人たちを待ちながら永遠に立っている仲間の偉大な気質に悩まされる。彼は耳に毒の滴がしたたり落ち、その瞬間から全意識が愚鈍さを帯びる。そして人生がさまざまな可能性を失ってしまったのではないかと恐れる。なじみ深い経験の壇上に急ぎ戻り、そこでよく知っている激情や感情の心の琴線に触れる慰めを見出す。そしてその居心地の良さにいつまでもとどまり、未知の試みを怖れ、引き続き感情の琴線に触れる、最も容易に見返りが得られることに満足するのである。このことは、彼らの中で今もなお生命が燃えていると断言できることを意味している。だがついに、グルメや大酒飲みと同じなれの果てとなる。魔法のような魅惑の力は日ごとに減り、それは失速する機械のようである。その人はより過敏に気持ちを表し、ものに固執し、カップの中に残った致命的な最後の毒を飲むことで、古い興奮をよみがえらせようと努める。それから彼は放心状態となる。あたかも狂気が飲んだくれの肉体にやって来るように、狂気が彼の魂に訪れる。人生にはもう何の意味もなくなり、やみくもに気の狂った精神障害どん底へと急ぐ。この大いに愚かなことをする劣った人は、おなじみの思考に愚鈍に執着することで、そして自分で最後のゴールだと言い張る回し車にしがみつき続けることで、他者の霊を疲れさせる。彼を取り巻く暗雲は、死そのものと変わらないくらい破滅的である。でも彼自身の偉大さを思い出すために、かつてのようにひざまずいて悲嘆を追い払い、ずっと昔に聞いた言葉を思い出すべきである。

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 終わりに達し、目標に到達し、もうすることはないと思われる時――ちょうどその時に、人は食べるやら飲むやら、心地よく生活するといったように獣のようにするしかないようだ。そして死のような懐疑論も――。実にその時もし目を向けたならば、黄金の門は目の前にある。内面に根づいた時代の文化と、完全に同化したものとによって、その人はそれらの権化となる。そして完全に可能な大いなる一歩を踏み出す用意はできているが、そのように挑んだその道の適者というのはたいへん少ない。門へ行こうとする人はめったにいない。その理由は部分的にはそれを取り巻く大きな困難のせいだが、もっと主要な原因は、門へと向かうのは実際に喜びと満足の手に入る道だということが分からないということだ。

 各個人の興味をひく、ある楽しみがある。ある感覚の層か、または別の感覚の層に自分の最も主要な楽しみを与えてくれるものがあるということを誰もが知っている。それは人生を通して自然に、いもづる式に知るようになる。ちょうどヒマワリが太陽の方を向き、睡蓮が水を頼りにするように。だが終始、魂に重くのしかかるひどい事実と戦う。つまり楽しみを手に入れるやいなや、またそれを失い、再びそれを求めて行くことである。それよりもひどい事実もある。実際にはその楽しみは決して手が届かない。つかみ取ろうとする瞬間、手から逃れて行くからだ。なぜならば、手の届かないものを取ろうと努力し、感覚のために外的な物体と接触することで魂の飢えを満たそうとしているからである。内なる霊的人間を外的に満足させるか、喜ばせることのできるもの――人を内的に支配し、物質に興味がなく、物に触れる手も、魔法の壁の外側のことが感じ取れる感覚もない霊的人間を、満足させるか喜ばせることのできる外的なものがあり得ようか? 内なる人間を取り巻くそのような魅惑的な障害物はいたるところにあり、尽きることがない。それは生きとし生けるものすべてにあり、宇宙をまるごと一つとみなすならば、宇宙にそれのない場所など想像できない。そして始めに、その要点が仮にでも認められない限り、人生の話題を熟慮してもむだである。本当に普遍的で統一性がなければ、そして私たちは自分自身のためではない何かの一部であるという事実ゆえに存在し続けるのでない限り、人生は無意味である。

 人の発達における最も重要な要素の一つは、普遍的な統一と調和の法則を、認識すること――それも深く完全に――である。個人と個人の間、世界と世界の間、全世界と生命の異なる極どうしの間、空間と呼ばれる精神的夢想と肉体的な夢想の間にあるへだたりは、人類が想像した悪夢だ。その悪夢は存在する。そしてその悪夢がひどく悩ませるためだけに存在すると、すべての子供が知っている。さらに私たちに必要なのは、私たち自身だけにかかわる脳の幻想と、他者にもかかわる日常生活の幻想との違いを見分ける力である。この法則はもっと大きな事例にも当てはまる。その事例とは他の誰でもない私たち自身に関係することだ。私たちは想像上の恐怖という悪夢の中に生きており、仲間というものが夢の一部にすぎないものだから、全世界で自分はひとりぼっちだと思い込み、他と関係しないで行動できると思い込む。だが黄金の門に挑みそれを押し開けようとした人たちと話したいと望むならば、次のことは大変必要なことである。つまり生活を眠りの混乱状態に至らせず、それを見分けることが。生活を眠りの混乱状態にしてしまうなら、頭のおかしな人と思われるし、友のいない混乱の暗闇の中に後退してしまう。この混沌が人の努力の一つ一つに付き添ってきたことは歴史に記されている。文明が開花した後、その花は散って枯れ果て、冬と暗闇がそれを滅する。人が夜の幻影と昼の活気ある姿をはっきり見分けられる識別力を得る努力をするのを拒絶しようとも、このことは必ず起こるに違いない。

 しかし、もしこのリアクション的な性癖に抵抗する勇気を持ち、到達した高みにぐらつかずにしっかり立つならば、そしてさらなる一歩を踏み出す場所を探し求めるならば、見つからないということがあろうか。ある地点で、これが終点への道だと思われることを決めるものは何もない。公然と認められた習慣と、人々が認めた、自分たち自身の抱え込む怠惰を正当化する理由となるものだけしかない。

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 人々が望んでいるのは、いかにして苦しみを喜びと取り替えるかをつきとめることである。それは、体験上最も心地よかった感覚を得るには意識がどのように規制されればよいかを見つけ出すということである。このことを人間の思考の力によって見つけることができるかどうかは、少なくとも熟考する価値のある問いである。

 ある与えられた論題に人の心が十分な集中力をもって向けられるなら、その人はその論題に関して遅かれ早かれ啓示を得る。最終的な啓示を得たらしい個々の人は天才、発明家、霊感を受けた人と呼ばれる。だが彼は周りにいる無名の人々による大いなる知的活動(メンタル・ワーク)の頂点にすぎず、その無名の人々は遠方の眺めのために彼から遠ざかっていく。その人々がいなかったら彼は扱う題材を論じることはなかっただろう。三文詩人でさえ注目される。三文詩人とはその時代と前の時代の詩的なエネルギーの真髄だ。どんな人種であろうと個人をその同族から分離させることは不可能である。

 したがって、もしも人々が未知のものを受け入れるのではなく、一斉に未知のものは理解できぬものと考えるならば、黄金の門は断固として閉じたままだろう。黄金の門を押し開けるには、強い力で押す必要はない。門を入る勇気とは、恐れずに、そして恥ずかしがらずに自分自身の性質を奥まで調べる勇気のことである。人のすばらしい部分、本質、特徴の中に、あの偉大な門の錠を開ける鍵がある。門が開いた時、何を見るだろうか?

 ここかしこで長い間の沈黙の声が、その質問の答えを言う 。門を通って行った人たちは、同じ道の人たちに言葉の遺産を残した。その言葉は門の向こうに探しに行くことになっている、はっきりとしたしるしを示す。しかし、その道を行こうと熱望する人たちだけが、その言葉に隠された意味を読み取る。学者は、というよりもむしろ古典注釈者は、さまざまな国の神聖な書物を読み、智慧を得たマインドたちの残していった詩や哲学を読み、その中に、ただの物質的性質のことだけしか見出せない。自然界の伝説の賛美や、人の霊的可能性の誇張が人類のバイブルの中にすべて見出せると想像していたのに。

 それらの本の中に見出されるべき言葉は、私たち一人一人の中に見出されるべきことである。探求する人の中に存在しないものを学問の中に見つけたり、思考の手段によって見つけたりすることは不可能である。もちろん、このことはすべての真の研究者に知られている明白な事実である。しかし特にこの深遠で隠されたテーマに関して思い出すべきだろう。人々が容易に認めるため、まるで何もない空虚のように思われているテーマだからである。

 読み手はすぐに一つの事に気がつく。かつて門を通って行ったこの著者たちは、忘却へと至る黄金の門を見つけられなかったのだ、ということを。別の見地から言えば、入り口を通ってはじめてリアルな感覚でわかるのだ。しかしそれは新しい未知の状態であり、少なくとも何かその特徴を知る手がかりがなければ正しく理解することはできない。その手がかりは、すべての文献をくまなく調べたいと思う、読み手に理解しやすい論説の研究者からならば、疑問の余地なく手に入るものである。前述の本や写本は存在するが、単純に次のような理由から、近づきにくいままだ。つまりそれらの本のどれも、最初のページすら読む用意のできている人はおらず、それらの主題を十分に学んだと確信の持てる人はいない、ということである。ずっと切れ目のない線があるに違いない。その線が愚鈍な無知から聡明さと智慧に至るまで伸びているのがわかる。さらにその線がきっと直感的な知識とインスピレーションにまで続いているはずだということは、当然のことだ。これら人類の賜物であるわずかな断片のいくつかは、一部分であったはずなのにそれが賜ることのできる全てとして受け取るしかないのだろうか? わずかな文脈の背後に隠されたものは、見たところ見通せない覆いに隠されている。私たちの目からあらゆる科学、あらゆる芸術、人間のあらゆる能力がその覆いにより隠され、剛胆さにより引きはがすまではそのままである。その剛胆さはただ確信からのみ生じる。自分で望んだものが見られるのだということを一たび信じたなら、その人はどんな犠牲を払ってでも望み、獲得するだろう。この場合、問題となるのは人の疑い深さである。門の錠を開け、輝く遠望を調査するためには、大きな思考の流れと注目を、人間の性質の未知の部分へと向け始めることが必要である。

 いかなる危険があろうとも、上記のことはする価値がある。一九世紀の悲しくなる問い――人生は生きる価値があるのか?――を問う人は全員、それを認めるべきだ。確かにそれは新しい奮闘に向けて人に拍車をかけるに十分なことだ。新しい奮闘――それは文明を超え、精神文化を超え、芸術を超え、機械的な完成を超えて疑った新たな入口で、人生の現実性に通じている。

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 悲しみと倦怠感から生じたこの質問は、見たところ本質的に一九世紀の精神の一部分であるように思えるが、実際はすべての時代にわたって問われてきたに違いない。歴史を理知的にさかのぼってみると、その問いは文明の花が満開に咲いた時、そしてその花びらがどうにか散らずに持ちこたえている時に、投げかけられる問いであることは疑いない。人間の生得の部分はその時、最高の頂点に達した。彼は困難の丘を、石を押し転がしながら登る。頂上に達した時、また石が転がり落ちるのを見るためだけに。――エジプトやローマやギリシアのように。なぜこの無益な骨折りをするのか? 言葉にならない疲労と病気をもたらすだけでは足りないというのか? 再び落ちぶれるのを見るためだけに、ずっと達成しつづけるのか? だがそれが、私たちの限られた知識の及ぶ限り、人が歴史を通じて為してきたことである。一つの頂点がある。それは人が多大な、そして団結した努力によって達成する。人の本質の物質的、精神的、知的な部分すべての大いなる、見事な開花がそこにはある。感覚を喜ばせる完成の最高点に達すると、彼の支配力は弱まり、権力が減少し、彼は失望と飽き飽きすることにより、バーバリズム(未開状態)へと後退する。なぜ彼は到達した丘の頂上にとどまらず、山々の向こうへと目を向けず、それらのもっと高い山々に登ろうと決意しないのだろうか? それは無知だからだ。きらきら光る遠くの山の輝きを見て、目がくらんでぼう然と目を伏せ、休もうとして慣れ親しんだ丘の日影へ引き返す。けれども時々この輝きをじっと見つめる勇気のある人がいて、その光の中にある形を見て取る。詩人、賢人、思想家、師匠――これらすべての「人類の年長者たち」は時々この光景を見て、そのうち何人かが当惑するほどきらめく黄金の門の輪郭を知った。

 黄金の門は私たちにおのれ自身の性質の聖域へ入って行くことを許し、自分の生命の力が出で来る場所、自分が人生という神殿の祭司である所へと通す。これらの黄金の門をくぐって入って行くことが可能であることを、ある一人か二人の人が示してくれた。プラトンシェークスピア、その他少数の強者たちが門を通って行き、門のこちら側で私たちに秘められた言語で語ってくれた。強者は門の入口から中へ入ると、もう門の外で人々に話さない。門の外にいる時に彼が話す言葉さえも神秘に満ち、ベールで覆い隠され深遠であるため、彼の歩んだ道をたどる人たちだけが自分自身の内なる光を見ることができる。

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 おそらく今と同じようにこれまでも、かなり多くの人が人生の重荷から逃れるために自殺しようとしてきた。そうすることで完全に忘れ去ることができると確信しているから、そうするのだ。しかし存在の仕方が変化するだけであるとためらい、そしておそらくもっと激しい苦痛の状態があるかもしれないと躊躇し、毒を飲むのをためらう人は、未知の世界の優しさを信用して荒々しく自分自身をそこへ放り出す軽率な魂たちよりも、理解のある人である。忘却の川* は死の川とは全く違う。そして誕生の法則が作用している限り、人類が死によって絶滅することはあり得ない。大酒飲みが大瓶のワインにまた戻って来るように、人はこの世の人生にまた戻って来る――自分ではなぜそうなるのかわからないままで。ただ、ちょうど大酒飲みがワインによって生じた感覚を望むように、人は人生によってもたらされる感覚を望むということだけはわかる。まことの忘却の川は私たちの意識から遠く離れたところにある。そこに到達するには上記のような意識――感覚と感情でいっぱいになりたいという願望――を持って存在することを、やめなければならない。

 なぜ人間という生き物は、そこから生まれて来たところの、大いなる沈黙の子宮の中へ戻らず、人生の推進力が及ぶ以前の安らかな胎児のように平穏の中にとどまらないのだろうか。それは、快楽と苦痛、喜びと悲しみ、怒りと愛を、渇望するからである。間違った人は、自分が生きることへの願望がないと主張するだろう。それでいて生きていることにより、その主張が嘘であることを証明する。誰も無理やり生きさせることはできない。ガレー船に奴隷はつながれても、命を無理に体とつなぐことはできない。人体の素晴らしい構造は、火がつかないエンジンと同じように、生きる意志がなくなってしまったら役に立たない。――生きる意志は断固として維持され中断しない。そして私たちが課された任務を遂行することを可能にする。さもなければ失望に満たされ、生まれてすぐに死んでしまう。このようなすごい努力を不平も言わず、まさに喜んで続けるのも、私たちがおびただしい感覚の中で存在するためであろう。

 そしてさらに、だいたいの人が目標という概念もなく、またはどちらの方向に進んでいるかわからないまま、意図も目当てもなしに進み続ける。この目的のないことに最初に気づき、自分が大きくて絶え間ない努力で働いていることをかすかに自覚し、それらの努力がどの目標に向けられているかについて全く考えがないことに気づいた時、人はみじめな一九世紀の思潮に下降してしまう。その人は道に迷って当惑し、希望を失う。懐疑的になり、幻滅し、疲れ、答えのないように見える次の質問をする。このような未知で理解の及ばぬような結末のために生きるのは本当に無駄ではないだろうか、と。だが、その結末は理解が及ばないであろうか? 少なくとも、もっと小さな質問には答えがあるだろう、つまり目標がある方向を推測することはできないだろうか? という質問には。

 

* 忘却の川、レテ。ギリシア神話で黄泉の国にあり、この川の水を飲むと浮き世のことはすべて忘れるという。(ランダムハウス英和大辞典)

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1章 喜びの探求 Ⅰ

 私たちはみな、苦痛と呼ばれる厳しい状況についてよく知っている。不思議なことに、最初にそう思われるように、苦痛ははっきりとした方法をとらせ、確固たる、とぎれることのない粘り強さを追求させる。苦痛が完全にずっと続くことはない。そうでなければ人は生きるのをやめねばならないだろう。しかし不断の努力は中断しない。いつも影のような姿をした絶望が人の後ろに立っていて、あまりにも長い間気づかれないなら、その恐ろしい指で今にも触れようとしている。何がこのぞっとするほど恐ろしい影に、私たちが生まれた時から死ぬ時まで絶えずつきまとう権利を与えたのか? 何がその影に、常にドアを少し開けたままにしていて、ちょうどふさわしい時に中に入って来ようといつも待ち構えている権利を与えたのか? 最も偉大な思想家がその常に生命を持った影の前に、ついに屈し倒れる。その人は、思慮分別があり次の事実がわかっている思想家にすぎない。つまり影に抵抗はできず、そして他のすべての人々と同じようにいつかはそれに苦しまなければならないのだという事実をである。この苦しみや悲しみは、人々の遺産の一部である。だが何ものにも苦しめられないでいようと決心する人は、自分を深くて冷たい利己主義にすっぽり包みこんでしまう。そのように包みこんでしまうことで、自分を苦しみから守るかもしれない。そのことは、喜びから切り離してしまうことでもあるだろう。平和がこの世で見つかることになっているなら、あるいは喜びが人生で見出せることになっているなら、それは感受性の門を閉ざすことによるのではない。感受性は最も高いところへ、そして存在の最も鮮明な部分へ、私達に入って行かせるものだ。肉体によって感覚を得る時、その感覚によって、この姿で生きようという気になる。どんな人でも、呼吸が満足感をもたらさない限り、わざわざ呼吸したいなどとは思いもしない。人生の一瞬一瞬の行為はどれも、それと同じである。たとえ苦痛の感覚があるとしても、喜ばしいがゆえに生きる。強く望むことは感覚による。他にも、無意識という深い海の経験と一つになるのも、人類が絶滅するだろうことも、そうである。もしあることが物質界の生活で起こる事例なのだとしたら、間違いなく感情面の事例でもある。――感情、想像力、情緒。これらすべてのすばらしく繊細な構造は、脳の驚くべき記録のメカニズムによって、内的あるいは精妙な人間を作り上げる。感覚は喜びを得る。果てしなき一連の感覚が人の生涯である。人生上の試みにおいてたゆまず働くことを望む感覚は、滅ぼしてしまったら後に何も残らない。したがって苦痛の感覚を完全に取り除こうとする人は、そして喜びにも傷心にも同じ状態を保とうとする人は、生命のまさにおおもとを襲われ、その人自身の存在する目的を破壊してしまう。そしてそのことは、今のこの推論あるいは直観力が示す限り、すべての状態にあてはまり、東洋人が憧れるニルヴァーナにすら当てはまるに違いない。ニルヴァーナの状態はそもそもそれが状態であるとすれば、そして魂の消滅ではないならば、たいへん繊細で神秘的で鋭敏な感覚の一状態にすぎない。そして目下のところ判断できる、人生上の経験によれば、感覚の精妙さが増すということは、鮮明さが増すということである。その例として、感受性と想像力のある人が友人の誠実さと不誠実さを感じる度合いは、感覚という媒体を通して粗大な物質の性質を感じる度合いよりも大きい。したがって、思想家が感じることを拒絶しても、それから逃れて行く場所はない。遠く到達できないニルヴァーナという目標すらも、感じることから逃れられるものではない。その人はただ、生命の文化遺産、言い換えれば感覚の権利を、受け取ることを拒絶しているにすぎない。もし人を人たらしめるものを犠牲にすることを選ぶなら、ただ無意識で怠惰であることに甘んじているにほかならない――それに比べれば牡蠣の生活のほうが刺激的というものだ。

 しかしそのような「偉業」を成し遂げることのできる人は誰もいない。ある人が存在し続けているという事実は、次のことをはっきりと証明する。彼は感覚をまだ望んでおり、欲望が肉体的生活の中で喜ぶに違いない積極的で活発な形態を、望んでいるということを。禁欲というまがい物で自分自身をごまかそうとせず、放棄したところで何も欲望からその人を引き離さないだろうからそうしないのは、より現実的なことと思えるだろう。それが存在の大いなる謎を解明するためのはっきりとした、より期待できる方法ではないだろうか? その方法によって神秘を確固たるものとし、神秘それ自体を問うことができるのだ。もし喜びや苦しみから学べる教訓について、立ち止まってよく考えるならば、喜びや苦しみという結果の原因である未知の事柄によく思い当たるかもしれない。だが人々は内省あるいは人間性の細かい分析から急いで顔をそむけがちである。それこそがどの学派のメソッドにも引けを取らず理解できる人生の科学であるに違いないのだが。その科学は測り知れない未知のものであることは確かだ。それにその科学は推測されたものにすぎず、一人か二人のより進歩した思想家にほのめかされたにすぎない。科学の進歩とはすでに存在するものの発見に他ならない。そして人生の科学が普通の理解力の人にとって不思議で信じられないものであるのと同じように、化学は今、田舎の若者にとって不思議で信じられないものである。しかし、最も早く研究所の実験をかじってみて新たな知識の発展を知る先見者がいるかもしれず、きっといることだろう。彼らは今や、人々が用い、その利益にあずかるために自然から発展した知識の体系を見たのだ。

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