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黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

1章 喜びの探求 Ⅰ

 私たちはみな、苦痛と呼ばれる厳しい状況についてよく知っている。不思議なことに、最初にそう思われるように、苦痛ははっきりとした方法をとらせ、確固たる、とぎれることのない粘り強さを追求させる。苦痛が完全にずっと続くことはない。そうでなければ人は生きるのをやめねばならないだろう。しかし不断の努力は中断しない。いつも影のような姿をした絶望が人の後ろに立っていて、あまりにも長い間気づかれないなら、その恐ろしい指で今にも触れようとしている。何がこのぞっとするほど恐ろしい影に、私たちが生まれた時から死ぬ時まで絶えずつきまとう権利を与えたのか? 何がその影に、常にドアを少し開けたままにしていて、ちょうどふさわしい時に中に入って来ようといつも待ち構えている権利を与えたのか? 最も偉大な思想家がその常に生命を持った影の前に、ついに屈し倒れる。その人は、思慮分別があり次の事実がわかっている思想家にすぎない。つまり影に抵抗はできず、そして他のすべての人々と同じようにいつかはそれに苦しまなければならないのだという事実をである。この苦しみや悲しみは、人々の遺産の一部である。だが何ものにも苦しめられないでいようと決心する人は、自分を深くて冷たい利己主義にすっぽり包みこんでしまう。そのように包みこんでしまうことで、自分を苦しみから守るかもしれない。そのことは、喜びから切り離してしまうことでもあるだろう。平和がこの世で見つかることになっているなら、あるいは喜びが人生で見出せることになっているなら、それは感受性の門を閉ざすことによるのではない。感受性は最も高いところへ、そして存在の最も鮮明な部分へ、私達に入って行かせるものだ。肉体によって感覚を得る時、その感覚によって、この姿で生きようという気になる。どんな人でも、呼吸が満足感をもたらさない限り、わざわざ呼吸したいなどとは思いもしない。人生の一瞬一瞬の行為はどれも、それと同じである。たとえ苦痛の感覚があるとしても、喜ばしいがゆえに生きる。強く望むことは感覚による。他にも、無意識という深い海の経験と一つになるのも、人類が絶滅するだろうことも、そうである。もしあることが物質界の生活で起こる事例なのだとしたら、間違いなく感情面の事例でもある。――感情、想像力、情緒。これらすべてのすばらしく繊細な構造は、脳の驚くべき記録のメカニズムによって、内的あるいは精妙な人間を作り上げる。感覚は喜びを得る。果てしなき一連の感覚が人の生涯である。人生上の試みにおいてたゆまず働くことを望む感覚は、滅ぼしてしまったら後に何も残らない。したがって苦痛の感覚を完全に取り除こうとする人は、そして喜びにも傷心にも同じ状態を保とうとする人は、生命のまさにおおもとを襲われ、その人自身の存在する目的を破壊してしまう。そしてそのことは、今のこの推論あるいは直観力が示す限り、すべての状態にあてはまり、東洋人が憧れるニルヴァーナにすら当てはまるに違いない。ニルヴァーナの状態はそもそもそれが状態であるとすれば、そして魂の消滅ではないならば、たいへん繊細で神秘的で鋭敏な感覚の一状態にすぎない。そして目下のところ判断できる、人生上の経験によれば、感覚の精妙さが増すということは、鮮明さが増すということである。その例として、感受性と想像力のある人が友人の誠実さと不誠実さを感じる度合いは、感覚という媒体を通して粗大な物質の性質を感じる度合いよりも大きい。したがって、思想家が感じることを拒絶しても、それから逃れて行く場所はない。遠く到達できないニルヴァーナという目標すらも、感じることから逃れられるものではない。その人はただ、生命の文化遺産、言い換えれば感覚の権利を、受け取ることを拒絶しているにすぎない。もし人を人たらしめるものを犠牲にすることを選ぶなら、ただ無意識で怠惰であることに甘んじているにほかならない――それに比べれば牡蠣の生活のほうが刺激的というものだ。

 しかしそのような「偉業」を成し遂げることのできる人は誰もいない。ある人が存在し続けているという事実は、次のことをはっきりと証明する。彼は感覚をまだ望んでおり、欲望が肉体的生活の中で喜ぶに違いない積極的で活発な形態を、望んでいるということを。禁欲というまがい物で自分自身をごまかそうとせず、放棄したところで何も欲望からその人を引き離さないだろうからそうしないのは、より現実的なことと思えるだろう。それが存在の大いなる謎を解明するためのはっきりとした、より期待できる方法ではないだろうか? その方法によって神秘を確固たるものとし、神秘それ自体を問うことができるのだ。もし喜びや苦しみから学べる教訓について、立ち止まってよく考えるならば、喜びや苦しみという結果の原因である未知の事柄によく思い当たるかもしれない。だが人々は内省あるいは人間性の細かい分析から急いで顔をそむけがちである。それこそがどの学派のメソッドにも引けを取らず理解できる人生の科学であるに違いないのだが。その科学は測り知れない未知のものであることは確かだ。それにその科学は推測されたものにすぎず、一人か二人のより進歩した思想家にほのめかされたにすぎない。科学の進歩とはすでに存在するものの発見に他ならない。そして人生の科学が普通の理解力の人にとって不思議で信じられないものであるのと同じように、化学は今、田舎の若者にとって不思議で信じられないものである。しかし、最も早く研究所の実験をかじってみて新たな知識の発展を知る先見者がいるかもしれず、きっといることだろう。彼らは今や、人々が用い、その利益にあずかるために自然から発展した知識の体系を見たのだ。

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