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黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 終わりに達し、目標に到達し、もうすることはないと思われる時――ちょうどその時に、人は食べるやら飲むやら、心地よく生活するといったように獣のようにするしかないようだ。そして死のような懐疑論も――。実にその時もし目を向けたならば、黄金の門は目の前にある。内面に根づいた時代の文化と、完全に同化したものとによって、その人はそれらの権化となる。そして完全に可能な大いなる一歩を踏み出す用意はできているが、そのように挑んだその道の適者というのはたいへん少ない。門へ行こうとする人はめったにいない。その理由は部分的にはそれを取り巻く大きな困難のせいだが、もっと主要な原因は、門へと向かうのは実際に喜びと満足の手に入る道だということが分からないということだ。

 各個人の興味をひく、ある楽しみがある。ある感覚の層か、または別の感覚の層に自分の最も主要な楽しみを与えてくれるものがあるということを誰もが知っている。それは人生を通して自然に、いもづる式に知るようになる。ちょうどヒマワリが太陽の方を向き、睡蓮が水を頼りにするように。だが終始、魂に重くのしかかるひどい事実と戦う。つまり楽しみを手に入れるやいなや、またそれを失い、再びそれを求めて行くことである。それよりもひどい事実もある。実際にはその楽しみは決して手が届かない。つかみ取ろうとする瞬間、手から逃れて行くからだ。なぜならば、手の届かないものを取ろうと努力し、感覚のために外的な物体と接触することで魂の飢えを満たそうとしているからである。内なる霊的人間を外的に満足させるか、喜ばせることのできるもの――人を内的に支配し、物質に興味がなく、物に触れる手も、魔法の壁の外側のことが感じ取れる感覚もない霊的人間を、満足させるか喜ばせることのできる外的なものがあり得ようか? 内なる人間を取り巻くそのような魅惑的な障害物はいたるところにあり、尽きることがない。それは生きとし生けるものすべてにあり、宇宙をまるごと一つとみなすならば、宇宙にそれのない場所など想像できない。そして始めに、その要点が仮にでも認められない限り、人生の話題を熟慮してもむだである。本当に普遍的で統一性がなければ、そして私たちは自分自身のためではない何かの一部であるという事実ゆえに存在し続けるのでない限り、人生は無意味である。

 人の発達における最も重要な要素の一つは、普遍的な統一と調和の法則を、認識すること――それも深く完全に――である。個人と個人の間、世界と世界の間、全世界と生命の異なる極どうしの間、空間と呼ばれる精神的夢想と肉体的な夢想の間にあるへだたりは、人類が想像した悪夢だ。その悪夢は存在する。そしてその悪夢がひどく悩ませるためだけに存在すると、すべての子供が知っている。さらに私たちに必要なのは、私たち自身だけにかかわる脳の幻想と、他者にもかかわる日常生活の幻想との違いを見分ける力である。この法則はもっと大きな事例にも当てはまる。その事例とは他の誰でもない私たち自身に関係することだ。私たちは想像上の恐怖という悪夢の中に生きており、仲間というものが夢の一部にすぎないものだから、全世界で自分はひとりぼっちだと思い込み、他と関係しないで行動できると思い込む。だが黄金の門に挑みそれを押し開けようとした人たちと話したいと望むならば、次のことは大変必要なことである。つまり生活を眠りの混乱状態に至らせず、それを見分けることが。生活を眠りの混乱状態にしてしまうなら、頭のおかしな人と思われるし、友のいない混乱の暗闇の中に後退してしまう。この混沌が人の努力の一つ一つに付き添ってきたことは歴史に記されている。文明が開花した後、その花は散って枯れ果て、冬と暗闇がそれを滅する。人が夜の幻影と昼の活気ある姿をはっきり見分けられる識別力を得る努力をするのを拒絶しようとも、このことは必ず起こるに違いない。

 しかし、もしこのリアクション的な性癖に抵抗する勇気を持ち、到達した高みにぐらつかずにしっかり立つならば、そしてさらなる一歩を踏み出す場所を探し求めるならば、見つからないということがあろうか。ある地点で、これが終点への道だと思われることを決めるものは何もない。公然と認められた習慣と、人々が認めた、自分たち自身の抱え込む怠惰を正当化する理由となるものだけしかない。

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