黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 間違いなく、物質の中にあるものを理解するためには自分自身を教育せねばならないが、同じように物質を超えたものを理解するためにも自分自身を教育せねばならない。誰もが知っていることだが、幼少期は一つの長い適応する過程であり、感覚が働く特別な活動範囲に関してそれらの感覚を働かせるコツを覚える過程であり、物質界の知覚に関して難しくて複雑でまだ不完全な体の組織を完全に使えるように訓練してゆく過程である。子供は、生きようと思うならば躊躇せず徐々に前進するし、真剣にそうする。ある赤ん坊たちは大地の光の中に生まれて、その光にひるみ、彼らの前にある多すぎるタスクに挑むのを拒み、物質的生活を可能とするために成し遂げられねばならないことに取り組もうとしない。その子らはまだ胎内にいる身分へ戻る。その子らがさまざまな部分を備えた道具である肉体を横たえ、しだいに眠りに陥って行くのを私たちは見る。それはもう物質の世界に打ち勝ち、征服し、楽しむようになった大多数の人間のかつてである。この大勢の各々は、よく見知った領域内ではたいへん力強く自信に満ちていても、非物質的な世界に面するとまだ赤ん坊だ。さらに彼らがあちらこちらで、日々そして毎時間、物質的生活の住人である仲間のところへいやいやながらも後退し、すでに経験し理解した意識に固執しているのを我々は見る。すべての純粋な霊的知識を知性が拒絶することは、この怠惰の最も際立ったしるしであり、すべての立場の思想家はこの怠惰のせいで確実に有罪である。

 生まれて最初の努力が多大なものであることは明らかである。そしてそれは明らかに、強さの問題でもあるし、自発的な活動でもある。だがこの強さを習得する方法あるいは習得して使う方法は、意志を働かせる以外にない。すごいものを持って生まれることを期待しても無駄である。人生の領域には、その人自身の過去よりほかに継承するものはない。彼は彼のものを蓄積せねばならない。己れの目を偏見によって盲目にしてしまうことのない観察者にはこのことは歴然としている。たとえ偏見を今ここに持っているとしても、その事実を感覚ある人間が気づかずにいるのは不可能である。そのことは、死後長い年月にわたって続くか、または永遠不滅であるかのいずれかの救済の教えを、私たちが得ることからわかることだ。その教えは自然界の真実を狭く限られた愚鈍な方法で示すもので、人は蒔いたものを刈り取るだろう、というものである。スウェーデンボリの偉大な知性には次の事実がたいへん明確にわかった。つまりこの特別な存在に関する最終的状態を強く思い込みすぎて、その先入観が、もはや感覚の世界で行動することがなくなった時に新たな行動の可能性があることに気づけなくしてしまうことをである。人は科学的観察を求めて独断的になり過ぎ、春の後に秋が来て、昼の後に夜が来るように、誕生の後に死が来るはずであることを見ようとしない。黄金の門の入り口に非常に近いところまで行き、ただの主知主義を超えて、ある地点にちょっとだけ立ち止まってもさらに一歩先へ行く。過去に得たものを超えた人生をのぞき見ると、どうやら宇宙を包含しているようだ。そして経験の断片から、全人生を包含する理論を持つようになって、その状態を超えて前進するのを拒んだか、もしくはその状態の外にある可能性を拒んだのだ。これはうんざりする円輪をぐるぐる回すことの、もう一つの形態にすぎない。しかしスウェーデンボリは何よりもまず、黄金の門が存在し、さらにそれは思考の高所から見えるという事実を目撃する大勢の証人たちの一人であり、彼は門の入り口から私たちに感覚のかすかな高まりを投げかけてくれた。

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