黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

3章 最初の努力 Ⅰ

 これは容易に見てとれることだが、人生上あるいは経験上に、ほかの時よりも事物の精髄(ソウル)に近くなる地点というものはない。磨き上げられた輝きを放ちながら満ちあふれている事物の精髄、または崇高な本質はこの大気に存在し、門の向こうでそれ自身を色づけする。しかし、この精髄はその真の性質により普遍的であるはずだという事実を、すぐに知ることのできる道は一つもない。黄金の門は特別な場所へ入って行く入り口ではない。特別な場所から出て行くための出口なのである。己の限界から解き放たれる時に、人はそれらの門を通り抜ける。そうすることが最も可能となる時に、人は闇の中に自分をとどめておく殻を破り、永遠のものを隠す覆いを引きはがすだろう。その可能となる時は、自分で予期せぬ時にこそ容易にやって来るだろう。人々は精神的な助けによって殻から脱出せんと求め行き、到達できないと見えるものにどうやって到達するのかということに関し、気まぐれで制限がある諸法則に屈するのだ。大勢の人は確かに、宗教という手段で切り抜けることを望み、思いと感情に行き場を与える代わりに、まるで幾時代もの間も、はまった型から外れることを可能にするには足りないと言わんばかりに、強く固定されてしまっている! ある人たちは純粋な知的能力により道は見つかると信じる。このような人たちのおかげで人類は完全な感覚への沈没を防ぐ哲学や形而上学を有する。だが人類の列の最後尾の人(訳:つまり最近の人)は思考によってのみ生きようとするので、空想の中に住む。そして現実の食べ物は他人にせがむのである。形而上学や超越論的哲学者に負うところは大きい。しかし彼らにとことんまでついて行き、脳が一器官として使うものにすぎないことを忘れ、議論の鈍い車輪が永遠に軸の周りを回っているような場所に自分がとどまっていることに気づくであろう。いまだにどこへも行かず何の積み荷も運べない車輪のところにである。

 美徳(あるいは人それぞれに美徳と思われるもの、道徳性と清らかさに対するその人自身の特別な基準)は、それを天界に至る道として守り実践する人々が持つものである。恐らくそれは、現代の快楽主義者にとっての、道徳的な享楽である。きれいな生活と立派な思想で食通になることは、味わいや視覚や音の快楽に劣らずたやすい。有徳な人はもちろん大酒飲みも、その意図するものは満足感である。たとえ、ある人の生活が驚くほど禁欲的で自己犠牲的だったとしても、彼の一瞬の思いが示すのは、見たところ英雄的な道を追いかける中で快楽を追求しているのだということだ。その甘い味に満足して、快楽は魅力を呈し、他人のおかげで自分が楽しむよりむしろ自分が他人を喜ばせることに満足する。もうその清らかな生活と高尚な思考はその人たちにとって最終的な状態ではなく、そのことは他の形態の喜びと同じである。そしてそれらの中に心の安らぎを見出そうと努める人は、努力の度を増し、絶えずそれを繰り返すーーすべてかいのないことだ。その人はまさに緑の植物であり、美しい葉っぱをしているが、大切なのは葉っぱではない。もし彼が知りもしないゴールにもう到着したと信じて、盲目的な試みを続けるならば、善行をせざるを得ない、そして美徳の行為も愛の輝きのないものとなる、憂鬱な場所に自分が置かれていることに気づく。清い生活は、手を清潔にするのと同じように良いーーそうしないと人はおぞましい者となる。しかし美徳はもう私たちの本質の他の部分以上のものではないということがわかる。霊は物質から発するガスではない。ある物質の因子を無理やり用い安らぎを失うことで未来を創造することはできない。霊は大いなる生命であり、物質は霊の上で安らいでいる。それはちょうど自由な流動体のエーテル上にある岩でできた世界のようだ。私たちは古い殻を破る時はいつも、自分自身が素晴らしい向こう岸にいるのがわかる。その岸はかつてワーズワースが見た、黄金の門の輝きがある。そこへ入って行く時、すべての現存するものはーー美徳も悪徳も、思考も感覚も、一様に消え失せるだろう。自分がまいた種を自分で刈り取るということも、もちろん真実であるに違いない。物質的生活の美徳を持ち続ける力はその人にはもうない。それでも、その人の善行の香気は罪と残酷さの匂いよりもはるかに良い香りの捧げ物である。しかし、美徳を実行することによって、その人は一つの型、一つの変えられない流儀に自分をはめこみ、縛り付けてしまうかもしれず、それがあまりに揺るぎないために、死は自分を自由にしてくれるということを心に思い描くことができないし、広大で輝かしい海ーーつまり黄金の門の重くて動かない掛け金を外すに十分な力ーーへと自分自身を投げ出すことができない。そして時に、ひどい悪事を犯し利己的な満足という猛烈な火で全性質が傷だらけ且つ真っ黒になった人は、とうとう完全に燃え尽きて炭になってしまうため、激情の真の活力から火が飛び出て行ってしまう。このことは、少なくともただの苦行者や哲学者よりも、門の入り口に達した人のほうに起きやすいだろう。

 だが門に達するのはたやすく、門を通り抜けるのに必要な強さがなくともたどり着ける。さらに言えば、たどり着くことだけが罪人の望むことのできるすべてであり、それは彼自身の魂の見地からは死の到来により達せられる。これは少なくともその通りに思える。彼の状態はネガティブだから必然的にそうなのである。黄金の門の掛け金を外す人は、自分自身の力強い手でそうせねばならず、その際完全にポジティブであらねばならない。このことを類推により見ることができる。人生における新たなことのすべて、新たな一歩や成長において、意志を最も支配的にして完全にする訓練が必要である。実際多くの場合、たとえ長所を持っていたとしても、そしてたとえある程度の意志が使えたとしても、最終的な、揺るぎない決意に欠けていることから、彼は望むものを手に入れることに完全に失敗するだろう。世界中のどの教育も、人をその時代の知的栄光に仕立てられないだろう、たとえその人の力が大きくても。その人が完成の花をつかもうと断固として望まない限り、無味乾燥な物知りや、言葉をたくみに扱う人や、機械論的な思考の達人や、ただの記憶の車輪にしかなれないだろう。このポジティブな資質を持っている人は、状況が逆らおうとも立ち上がり、自然な栄養物である思考の潮流を知って把握し、自分が達せんと志した場所に、ついには巨人として立つだろう。このことは現実に、人生のあらゆる方面で毎日見られる。単に自分の性質のドグマティックで限られた部分を粉砕したいという熱情によってだけでは、これらの偉大な門をくぐり行くのは不可能に思える。しかし、偏見で目が見えなくなっていない限り、そして思考の車輪にしがみついていない限り、そして魂の車輪が人生の深い溝にはまってしまっていない限り、ひとたびポジティブな意志が彼の中に生じたならば、しばらく彼は希望を失わずに、大変離れたところにある掛け金を外そうと手を伸ばすだろう。

 疑問の余地なく、人生上これまで見た中で最も厄介な仕事は、まさに今のこの話題ーー人をすべての偏見から解放すること、すべての結晶化した思考や感情から解き放つこと、すべての制限から自由にすること、そして内なるポジティブな意志を発達させることだ。それはあまりにも奇跡的すぎる。普通の生活の中でポジティブな意志は常に結晶化した考え方と結びつくであろうからだ。実現するにはあまりにも奇跡的すぎるように見える多くのことが、まだ為されていない。現在の人間に人生という限られた経験の場が与えられているのに、である。困難は落胆する言い訳にできないことを過去のすべてが示す。まして絶望の言い訳には。そうでなければ世界には多くの驚くべき文明がなかっただろう。もっと真剣にものごとを考えよう。それゆえ、ひとたび心が思い描いたことならば、不可能ではないのだ。

 最初の大きな困難は、目に見えない世界に関心を向けることである。だがそれは毎日やっていることで、私たちは自分の行為を導くために、どのように自分が行為するかを観察しさえすればよい。どの発明家も、目に見えないものにしっかりと関心を向ける。そして彼が成功するか失敗するかは、もっぱらその関心の強さにかかっている。詩人は自分の詩を創作する瞬間を眺めて、目に見えないものを見、音のないものを聞くと言う。

 恐らくこの詩人の類推に、知られざる領域(実にその地は「行ったら最後、誰も戻って来ない」目的地)への旅が成功するために船の帆をどうすべきかが含まれている。このことは発明家や、人間の普通の精神的・肉体的レベルを超えたところへ手を伸ばすすべての人に当てはまる。船の帆は「創造」(クリエイション)という言葉にある。

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