黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

3章II

 「創造する」という言葉はよく平凡な知性に、何もない無から徐々に進化させる概念を伝える。明らかにそれはそのような意味ではない。私たちは世界がそこから生まれてきたところの混沌により創造する創造者を用意するよう精神的に強いられる。社会生活の典型的な生産者である土を耕す人は、自分の物質を、地面を、空を、雨を、太陽を、そして地中にまく種を、持たねばならない。無からは無しか生み出せない。自然界は真空(ボイド)からは生まれない。物質が、世界に対する私たちの欲望により形づくられた母なる自然の向こうに、背後に、内部に、またそこから、発生し存在している。種と、種を成長させる地と空気と水は、行為のあらゆる段階に存在するということは、明白な事実である。発明家と話をしてみると、彼が今していることのずっと先のことがわかると知るだろう。彼は常に、言葉に表現できないけれど他にもやらねばならないことを知ることができる。言葉に表現できない理由は、彼がまだそれをモノとして世に生み出していないからである。その目に見えないモノの知識は詩という形でより一層はっきりとする。そしてその意識の一部を他の人たちと分かち合うまでは、彼はそれをうまく表現できない。だが彼の偉大さに正確に見合う分だけ、彼は普通の人には存在し得ると信じることさえできない意識の中に住まう。その意識は、より大きな世界に住む意識であり、より広い大気の中で呼吸している。その広い大気は、より広い地と空を見守り、巨大に成長した植物から種をもぎ取る。

 手を伸ばす必要があるのは、この意識の場にである。この意識の場が天才のために取ってあるのではないことは、殉教者や英雄たちが発見しその中に住んだという事実により示される。それは天才のためだけにあるのではなく、偉大な魂を持つ人々だけがそれを見つけることができるのである。

 この事実にがっかりする必要はない。人間の偉大さは生まれつきのものであると、たいていの人が思っている。この考えは思考が望んだ結果に違いなく、自然界の事実に対し盲目であることの結果である。偉大さは成長によってだけ達せられる。そのことは絶えず実証されている。山々でさえ、そして堅い天体そのものでさえ、成長という方法によって偉大なのだ。原子の寄せ集めという物質的な状態にとっては、それは奇妙なことであるが。すべての存在の形態に本来備わっている意識は、より進歩した生命の形態になってゆくにつれてより活動的になり、そうなるにつれて蓄積によるのではなく吸収(同化)によって進歩の力を手に入れる。この特別な観点(実は長期間保つことが難しい観点で、私たちは習慣的に人生を面で考え、大いなる進化の線(ライン)とつながり、それを通って経験するということを忘れる)から見ると、次のように考えることは理にかなっているということがすぐにわかるだろう。つまり、私たちは現在の立ち位置からさらに先へ前進するにつれて、吸収(同化)により成長する力はもっと大きくなるだろう。そして多分、成長の仕方はさらに早く、容易に、無意識的になるだろう。目を開いて見るならば、宇宙は実のところ、素晴らしい徴候でいっぱいである。最初に必要なことであり、最初の困難であることは、この “目を開く” ということである。私たちは手の届く近くだけを見てすぐに満足してしまう傾向がある。天才は本質的な特徴として、すぐそこにある果物にいくぶん無関心であり、遠くの丘の上にある果物を切望する。実のところ天才は切望を誘発するものに、接触する必要はない。この肉体感覚の助けなしに感知する遠くの果物が、食欲をそそる食物よりも、より精妙でよりおいしいということを天才は知っている。そしてそれからどれほど報酬の得られることか! 天才がその果物を食べると、どれほど甘くておいしいことか! そしてどれほど新しい生命の感覚が彼に芽生えることか! 彼は、その味を感じるための精妙な感覚があることに気づく。内なる人間の生命を養う感覚である。そして黄金の門の掛け金を外すのは、内なる人間の強さによるのであり、それだけにかかっているのだ、と知る。

実のところ黄金の門の存在は、内なる人間の成長と発達だけによるのであり、門から入って行けるのも、門に気づくことさえも、それらによるのである。人は肉体的な感覚に満足し、精妙な感覚に注意を払わないうちは、門は文字どおり目に見えないままだ。田舎者にとって知的な人生への入り口が絶滅や非存在をもたらすもののようであるのと同じく、粗野な感覚の人にとって、たとえその人が知的に活発な人生を送っているとしても、かなたにあるのは絶滅と非存在であり、それはひとえにその人が本を開いて読まないからなのだ。

 学者の蔵書をよごす召使いには、その蔵書全巻は価値がない。その人も単なる召使いでなく学者であらぬ限り、よごさないと保証はできないようだ。全くの怠惰を外に締め出して、永遠の間中、注目していることは可能である。全くの怠惰とは、懐疑心という精神的な怠惰のことで、ついに人間はうぬぼれることを覚える。それは疑念と呼ばれ、理屈の影響下にあると言われる。その状態は、うぬぼれが正当化される状態でもなく、東洋の快楽主義者が食べ物を食べるのに自分で口へ運ぶことさえしない状態とも違う。「理にかなっている」人は行動に価値を見出さないし、それがゆえに行動しない。懐疑論者もそうである。精神的にも、霊的にも、肉体的にも、不活動の状態に腐敗がつき従う。

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