黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

3章Ⅱ(2/2)

(つづき)この特別な観点(実は長期間保つことが難しい観点で、私たちは習慣的に人生を面で考え、大いなる進化の線(ライン)とつながり、それを通って経験するということを忘れる)から見ると、次のように考えることは理にかなっているということがすぐにわかるだろう。つまり、私たちは現在の立ち位置からさらに先へ前進するにつれて、吸収(同化)により成長する力はもっと大きくなるだろう。そして多分、成長の仕方はさらに早く、容易に、無意識的になるだろう。目を開いて見るならば、宇宙は実のところ、素晴らしい徴候でいっぱいである。最初に必要なことであり、最初の困難であることは、この “目を開く” ということである。私たちは手の届く近くだけを見てすぐに満足してしまう傾向がある。天才は本質的な特徴として、すぐそこにある果物にいくぶん無関心であり、遠くの丘の上にある果物を切望する。実のところ天才は切望を誘発するものに、接触する必要はない。この肉体感覚の助けなしに感知する遠くの果物が、食欲をそそる食物よりも、より精妙でよりおいしいということを天才は知っている。そしてそれからどれほど報酬の得られることか! 天才がその果物を食べると、どれほど甘くておいしいことか! そしてどれほど新しい生命の感覚が彼に芽生えることか! 彼は、その味を感じるための精妙な感覚があることに気づく。内なる人間の生命を養う感覚である。そして黄金の門の掛け金を外すのは、内なる人間の強さによるのであり、それだけにかかっているのだ、と知る。

 実のところ黄金の門の存在は、内なる人間の成長と発達だけによるのであり、門から入って行けるのも、門に気づくことさえも、それらによるのである。人は肉体的な感覚に満足し、精妙な感覚に注意を払わないうちは、門は文字どおり目に見えないままだ。田舎者にとって知的な人生への入り口が絶滅や非存在をもたらすもののようであるのと同じく、粗野な感覚の人にとって、たとえその人が知的に活発な人生を送っているとしても、かなたにあるのは絶滅と非存在であり、それはひとえにその人が本を開いて読まないからなのだ。

 学者の蔵書をよごす召使いには、その蔵書全巻は価値がない。その人も単なる召使いでなく学者であらぬ限り、よごさないと保証はできないようだ。全くの怠惰を外に締め出して、永遠の間中、注目していることは可能である。全くの怠惰とは、懐疑心という精神的な怠惰のことで、ついに人間はうぬぼれることを覚える。それは疑念と呼ばれ、理屈の影響下にあると言われる。その状態は、うぬぼれが正当化される状態でもなく、東洋の快楽主義者が食べ物を食べるのに自分で口へ運ぶことさえしない状態とも違う。「理にかなっている」人は行動に価値を見出さないし、それがゆえに行動しない。懐疑論者もそうである。精神的にも、霊的にも、肉体的にも、不活動の状態に腐敗がつき従う。

 

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