黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

3章III

  では、目に見えぬものに打ち勝つことに関心を向けるという最初の困難がどんなものか考えてみよう。私たちの低俗で濃密な感覚は、普通の意味での「対象」にだけ注意を向ける。だが人生の普通の領域のすぐ向こうに、より微細な感覚器官に訴える、微細な感覚作用がある。ここにおいて私たちは必要な足がかりへの最初の糸口を見出す。この見地つまりたくさんの光線(rays)や線(lines)が集中する一点のような見地から、人はものを見るようになる。さらに、もしその人が生命の最も単純な形態から自分自身を切り離す勇気あるいは関心があるのなら、この一点と、これらの線や光線に沿うわずかな距離の道を探検する中で、彼の全存在が広がって大きくなり、成長し始める。ただし明らかなことは、もしこの説明を正確に正しいものとして受け入れるならば、主要な意義あるポイントは、一つの線に沿って探検を継続し、別の線に沿ってするのではないということだ。そうでないなら、結果はおぞましく変形したものとなるに違いない。私たちはみな、次のことを知っている。森にある一本の木に、威風堂々として立派な風采があるとしよう。その木には呼吸するに十分な空気があり、根を伸ばす余地があり、絶えざるタスクを成し遂げていく内的な活力があったから、立派に育ったのだ。そのことは完璧な自然界の成長の法則に支配されている。そしてこの事実から独特の畏敬の念が生じる。
 どうすれば内なる人間を認識でき、その成長を観察し、養うことができるだろうか?
私たちが道しるべを手に入れたこの道を、ほんの少しだけ先に行ってみよう。でも言葉はきっとすぐに役に立たなくなるだろう。
 私たちは皆それぞれ、助けなしで一人旅をする。旅人は一人で山を登るにつれ、山頂に近づく。そこではロバは重荷を運んでくれない。低俗で濃密な感覚も、その感覚に触れるものも、旅人を助けてはくれない。しかし言葉が少しの距離の道づれになってくれるかもしれない。

 舌には食べ物の甘さや辛さがわかる。感覚が最もシンプルな状態の人にとって、そのことには甘さ以上の何の概念もない。しかしより微細な本質、同じ感覚がより高い次元に置かれたものは、別の認識に達する。美しい女性の優美さ、あるいは友達の微笑みの優しさは、内的な感覚が少ししかない人ーーあまり感動しない人ーーにさえ、元気づけになる。黄金の門の錠を解く人には、さわやかな川が湧き出し、小川の源泉からあらゆる安逸が生じ、それが彼の遺産の一部となる。

 しかしこの源流の噴き出す水を飲む前に、あるいは他の湧き水が流れて来て、水源が見つかる前に、ハートから重荷が取り除かれるべきである。ハートを押さえつけて強さが現れないようにしている鉄の棒を。

 自然界の水源から流れ来るさわやかな水の流れ、つまりあらゆる形態の生命の流れを知る人は、ハートを押さえつけるものから持ち上げ、彼自身を何の束縛もない状態へと引き上げたのだ。彼は自分が大きな全体の一部分であることを知っている。そして彼の遺産はこの知識の中にある。それは次のことによって成される。つまり大人になって自分の支配者となった彼が、人格の中心に自由意志によって自分自身を縛りつけている束縛を、バラバラに断ち切ることでだ。彼が外へと大きく広がるにつれ、そして肉体を与えられた地点を中心とするこの広がりの軌跡に沿って多種な経験を積むにつれて、自分がすべての生命と接触したことを発見する。そのすべての生命を彼自身の中に、まるごと全部含んでいるのである。それから彼は自分自身を、善と呼ばれている大いなる力へと手放してしまう。彼は魂の手で善をしっかりとつかむ。そして彼はすみやかに、大いなる、真の生命の広い海へと運ばれて行く。その海とは何であろう? 今の生活で私たちは物質の影しか知らない。誰しも、愛することに飽きることが付き物である。誰しも、ワインを飲めばまた飲みたくなる。飢えと、暗い空を切望することで、この世は敵意に満ちる。私たちに必要なのは、生命の実を結ぶ大地、常に光あふれる空である。前向き(ポジティブ)に必要とすることで、私たちはそれを確かに見出だすだろう。

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