黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 人の本質とその傾向について注意深く考察したならば、成長していくはっきりとした二つの方向があるのがわかるだろう。人は木のように地中に根を伸ばし、同時に天に向かって若い枝を伸ばす。個人の中心の点から外へ向かうこれらの二つの道筋は、自分にとってはっきりしており、明確でわかりやすい。あの人は良くこの人は悪い、と人は言う。しかし類推や観察や経験によれば、人は一本の直線のようなものではない。その人が、またはその人の人生が、あるいは進歩向上が、成長が、または何と呼ぼうともそれが、ただ一つのまっすぐの道だけを辿ることによるふりをするのは、狂信者である。巨大な難問の問いかけ全体が、たいへんたやすく解明されるだろう。しかし伝道師が断言するほど、落ちぶれることはたやすいことではない。落ちぶれ駄目になることは、黄金の門に至る道を見つけるのと同じくらい困難なタスクなのだ! 人は感覚の海ーーつまり楽しみーーに自分を難破させるかもしれず、その人の全性質の品性を落とすかもしれない。ーーだが完全な悪魔になるほど落ちてはいない。まだ神の光の火花がその人の中にあるからである。彼は破滅に至る広い道を行こうと決め、勇ましくその道に入り、全速力で進む。だがすぐにある考えがふと浮かんでギクッとし、足を止められる。そのある考えとは、彼自身の性向であり、あまたあるエネルギーの発散の中の、彼の自我の中心から来る放射物である。それが奇妙に発達して、健常な行動の邪魔をする時、彼の肉体と同様に彼は苦しむ。自分が苦痛を作り出し、自分で作ったものと戦うこととなった。まるで、この激論を交わす戦いが、肉体の痛みに効かない塗り薬を塗っているかのように見える。もし、ふだん心を占めているよりも高い見地から人間を考えたなら、それとは違うふうに見える。人が、願望に従って外界に現れた形をまとった、強力な意識とみなされるなら、肉体の痛みはそれらの願望の形が損なわれたことに起因するのは明らかとなる。たぶん人のこの概念は、根拠がなさすぎるし、証拠の入手できない未知の場所へメンタルが飛び込むには大きすぎて無理だということが、多くの心(マインド)にとってはっきりしてくるだろう。しかし心がこの見地から人生を観察するのに慣れてくると、すぐに他のどんな見方にも満足できなくなる。純粋に物質主義的な観察者にはどうしようもないほど絡まってしまったように見える存在という名の糸は、もつれをほどかれまっすぐになる。その結果、新たな理解が全世界に光明を投ずる。苦痛と喜びとを意のままに負わせる勝手気ままで無慈悲な創造主は、人生の舞台から姿を消す。それでよいのだ。そんな創造主は本当に無用な登場人物であり、さらに言えば周りから独断家に支えてもらわなければ舞台の上を役者の歩き方で歩くことすらできない、ただのワラ細工の人形なのだから。確かにこの世のある町か別の町に住むのと同じ原理に基づいて、人はこの世に生まれる。そのように多すぎるくらい言われているとすれば、なぜ自分はそうではないのか尋ねても差し支えがなかろう。物質主義者は賛成にも反対にも心を動かされないし、そのどちらも法廷では重要ではない。しかし私は議論の利益となるように、このことを断言するーー真剣に考えてみるために懐疑論者の正式な説に、たった一度でも戻ってみる人は誰もいなかったと。そうすることは、再び乳児の産着を着るようなことらしい。

 では、議論を進める上で、人は自分自身の創造主である強力な意識であり、自分自身の中に潜在的にすべての生命があり、最高の目標さえもあるということを認めて、彼自身が彼の苦しみをもたらすと考えよう。

 苦痛が不均衡な成長の結果であり、奇形な発達の結果であり、さまざまの点で欠陥のある前進の結果であるならば、人はそのことから教訓を学び、成長のために(幸福と)同程度に苦痛を受け取るべきではないだろうか。(つづく)