黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 このことを考察する上で、すべての非常に苦しむ人たちが学ぶ、ある確かな教訓が、私たちにとって大いに役に立つだろう。激しい苦痛の中で、苦痛とその正反対の喜びとを区別できない地点に達する。それは本当であるが、少しの人しかその遠くにある地点の苦しみを受ける精神力や英雄的資質を持っていない。他の道に沿ってそこへ到達することと同じくらい、それは困難である。選ばれた少数の人だけが、正反対の側へ旅することを可能とする喜びというものを受容する、巨人のような力を持つ。しかしほとんどの人は、喜んで、そして喜びの奴隷となるのがやっとだ。けれども人は、紛れもなく自分の中に、大いなる道程に必要となる英雄的資質を持っている。そうでなければ、どうして責め苦のさ中に、受難者たちが微笑んだであろうか。そうでなければ、どうして喜びのために生きる大罪人が、ついに彼自身の内部に神からの啓示を感じられるであろうか。

 これらの事例の両方とも、道を見いだすことから可能性が生じたのである。しかし多くの場合、その可能性は突然の驚きにバランスを失い、台無しになる。受難者は苦しみへの愛着を身につけて、英雄の受難という概念の中で生きる。罪人は美徳の概念で盲目となり、美徳を目標として、ねらいとして、その中に神があるものとして、崇める。ところが、それが神であり得るのは、美徳と同様に悪徳も包含する、果てしない全体の一部分としてだけである。一つである無限のものを、分割することができようか? 海から一杯の水を汲んで、その水は海に含まれていたと明言するのと同じくらい、あらゆる対象を神のものとするのは筋が通ったことだ。海を分割することはできない。海水は海の一部であり、そうでなくてはならない。でもだからと言って、君は大海を手に持ってはいない。人々はカップの中に無限性を入れる個人的な力、神聖な概念を決まり文句の中に表現する個人的な力を、熱心に望む。そうすることで、その力を持っていると空想するために、である。これらは、立ち上がって黄金の門へ近づいて行くことができない人たちにすぎない。人生の大いなる息が彼らを混乱させるのだ。彼らはその門がとても偉大であることを知る恐怖に打撃を受ける。偶像崇拝者は心の中に偶像を据え、いつもその像の前にろうそくを輝かせる。たとえその偶像を崇拝しおじぎをするとしても、偶像はその人自身であり、その人はその概念を喜ぶ。どれほど多くの、有徳な、宗教的人々の中に、この同じ状態が存在することか。魂の休息の中で、家の守り神の前にランプの火は燃えている。問題はその崇拝者にあり、その人に支配されている。人々はこれらのドグマ、これらの道徳律、これらの原理、彼らの家の守り神であり個人的な偶像である信仰のあり方に、甚だしく固執する。それらは無限のものだけをうやまって不断の炎を燃やすよう命じ、そして君を見捨てるのだ。君の抗議を軽蔑するそれらの態度がどんなものであろうと、それ自体はずきずきと痛む空虚感を残す。なぜならば、人の気高い魂、私たち皆の内に潜む王が、家を守る偶像(household idol)は、いつ何どきでも倒され破壊されるかもしれないとよくわかっているからである。その時に結末はなく、いかなる本当の、そして完全な人生もない。さらに彼は、保有しているものは不変な人生の法則によってのみ一時的に保持することができることも忘れて、自分の所有に満足している。彼は無限が彼の唯一の家であることを忘れている──偶像だけが彼の唯一の神であり得る。そのことで彼は住むところのないように感じる。だが彼自身の特別な偶像に捧げる犠牲の中で、つかの間の休息所がある。そしてこのために彼は情熱的にそれにしがみついている。

 ゆっくりとでも大きな孤独に向き合う勇気を持っている人はほとんどいない。その大きな孤独は、自分たち自身の外部にあり、自分たちを象徴する人物に執着する間はそこにあるはずで、その「私」は彼らにとって世界の中心であり、すべての人生の原因である。神への憧れの中に、彼らは一者の存在の理由を見つける。感覚─肉体への情欲と、楽しむ世界への願望の中に、彼らにとっての宇宙の原因がある。これらの信仰は表面の下のたいへん深くに隠されているかもしれず、実際にはほとんど接近できない。しかしそれらの信仰がそこにあるという事実には、人が自分自身をまっすぐ立たせておける理由がある。その人にとって自分自身は無限であり神である。彼はカップの中に大海を持っている。この錯覚により彼は人生を喜びに変え、苦しさを嬉しさにするエゴイズムを育てる。この深いエゴイズムが、喜びと苦痛の存在する真の原因であり、おおもとである。人間がこれら二つの間を揺れ動かない限り、そして自分が存在するという感覚を絶え間なく思い起こさない限り、彼はそのことを忘れるだろう。そしてこの事実には、「なぜ人間は自分の不快感のために苦痛を作り出すのか?」という質問に対する答え全体がある。

 不思議な、そして神秘的な事実が今のところまだ解明されていない。そして自分自身をだましている人間は、ただ自然界の意味を逆にくみ取り、生命の意味に死という言葉をあてがっている。その人は本当に自分の中に無限のものを持っており、大海は実際にカップの中にあり、それは否定できない真実である。しかしそれは、カップが全く存在しない物であるという理由でのみ、真実である。カップは単に無限の体験であり、永続性を持たず、いかなる場合にもすぐに粉々に打ち砕かれる。それはその人の人格の、四方の壁に狭く囲まれた室内のための現実性および永続性を要求することであって、その人は長く引き延ばされた一連の不運な出来事に自分を陥れるという大間違いを犯し、好きな形の感覚の存在を絶えず強める。喜びと苦しみは、彼がその一部であり住みかとする大海よりも、自分にとって現実のものとなる。彼は感じられるこれらの四方の壁に痛ましくぶつかり続け、永久にそうし続け、選んだ牢獄の中でちっぽけな自我は揺れ動き続ける。

広告を非表示にする