黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 宗教はさまざまな非常に単純な理由から、人が道を進むのを妨げ、前進の妨害となる。第一にそれは善と悪を区別するという致命的な間違いをする。自然界はこのような区別をしない。そして我々に宗教を尊重させる道徳的・社会的法則は、一時的なものとして、私たち自身の特別な様式と存在の形態のようなものとして、蟻や蜂の道徳的・社会的法則として、宗教を尊重させるのだ。これらのことが最終的に現れ、そして永久にこれらを忘れる状態から、私たちは抜け出す。このことを見つけるのはたやすい。なぜかと言うと、広く考える習慣のある人や知性のある人は、他の人々の間に住む時、自分の生活の基準をいくらか変える必要かある。これらの他の人々は、その人々の間にいるよそ者から見ると、彼ら自身の深く根づいた宗教と遺伝的な確信を持っており、よそ者である彼はそれらに背くことはできない。心があわれなほど狭く、思考力がないのでない限り、彼にはその人々の法則の形式が自分のと同じくらい良いものだとわかる。それならば、行動を徐々にそのルールに合わせることに甘んじる以外、どうすることができようか。さらに、その人々の間に何年も住まうならば、違いという鋭い刃は磨耗し、どこまでが彼らの信仰でどこからが自分の信仰か、彼はついには忘れてしまう。しかし誰をも害さず、公正さを保ったならば、彼の側の人々は彼が悪いことをしたなどと言えようか。

 私は法と秩序を非難しているのではないし、これらのことを軽率に嫌悪して言うのではない。法と秩序はそれらがあるべき場所で、蜜蜂の巣の生活を支配する法体系がその成功した行動にあるのと同じくらい重要であり、必要である。指摘したいことは、法と秩序そのものは非常に一時的で不十分なものだということだ。人の魂はつかの間の住居であるこの世を去り、法と秩序の概念は付き従って行かない。もし魂が強ければ、すべての人が死ぬことによって自分を見守っていたのが誰なのか知るのと同じように、死は真の存在と本当の人生を手に入れるエクスタシーとなる。もし魂が弱いと、気を失って消えて行き、新たな人生の最初の流入によって圧倒されてしまう。

 私は明言しすぎるだろうか? そう言うのは、今この時に活動的な人生を生きている人たちだけ、死んだ人と死にかけている人をそばで見ていなかった人たちだけ、戦場を歩かず臨終で苦しむ人の顔をのぞき込んだことのない人たちだけであろう。強い人は自分の体から喜んで出て行く。

 なぜそうなのか? 彼はもう抑制されず、躊躇して震えることもないからである。死の不思議な瞬間に、彼は与えられた解放を経験していた。そして突然の歓喜の情熱で、それが解放であると悟る。かつて、彼はこれを確信していたが、自分自身と自分の体を支配する力を持っていただろうから、世界を支配する人、偉大な聖者だったであろう。平凡な人生の鎖からのその解放は、死によるのと同じくらい容易に人生の間に得られる。人に、別の人の体か、もしくは千人もの人々の体を見るのと同じ感情で自分の体を見るのを可能とするためには、十分に深い信念が必要なだけである。戦場を考えてみると、すべての苦しめる人の苦しみを理解することは不可能である。ならばなぜ、君自身の苦しみを他の人の苦しみよりもはっきり理解するのだろうか? 全体を集めて、それを個人の人生より広い視点から見よ。すると君自身の肉体の傷は、君の限界の弱みであると実際に感じる。霊的に成長した人は、他の人の痛みを自分のもののようにはっきりと感じ、そう望む強さがあれば自分自身の痛みは少しも感じない。真剣に霊的な状態を調べたすべての人が、これは事実であると知っており、霊的な成長に従って多かれ少なかれ見られることだ。多くの場合、サイキックな人は他の人の痛みより自分自身の痛みのほうを、より強く、より意識的に感じている。しかし、それはおそらく成長が見られるまで、ある地点に達するまでのことである。それは、完全な平穏と活気ある行動の意識のすれすれのところへと人を駆り立てる力である。それは、人をそれ以上先へ運ぶことはできない。だがもしその人がそのすれすれの端に到達したならば、自分自身の自我のつまらない支配から自由になる。それは最初の大きな解放である。見よ、私たちの狭く限られた経験と同情から来る苦しみを。私たちは完全にひとりで、単独の一個人で、世界の中でごく小さな存在だ。どんな幸運を期待できようか。世界の偉大な人生が突入し、私たちは各瞬間に危険にさらされている。それは私たちを圧倒するか、完全に破壊しさえするだろう。それに対する防衛策はない。それに対抗する軍隊を設置することはできない。この人生で一人一人が他のすべての人と戦い、同じ軍旗の下に二人の人が団結し得ないからだ。毎時、戦うこの恐ろしい危険から逃れる道がただ一つだけある。体の向きを変え、諸エネルギーに対抗するのではなく、それらと一つになれ。母なる自然と一つになり、彼女の道を楽々と進め。植物が雨と風に面するのと同じように、人生の出来事に憤慨したり抗ったりするな。すると突然、驚いたことに君は、取っておいて大いなる戦いで使うための力と時間を持っていることに気がつくだろう。誰もが戦わなければならない不可避の戦闘で、である。その戦闘は、内なる戦いであり、自分自身を征服する戦いだ。

 ある人は、それは自分自身を破壊することだと言うかもしれない。なぜか? なぜならば、素晴らしい生きる現実性を最初に味わった時から、彼はますます個別の自我を忘れてゆくからである。もう彼は自分自身のために戦ったり、自分自身のために他者の力に抗して闘争したりしない。もう自分自身を守ったり助長したりしない。しかし彼が幸福に対しこのように無関心である時、個別の自我は、人跡未踏の森林の木や、大草原の草と同じように、より強く丈夫に成長する。彼はそうであるかどうかには無関心である。唯一そうである場合に、彼はすぐれた道具を手元に用意している。そして彼の無関心の完全さに比例して、彼の個人的な自我は強く美しい。これは容易に見られる。庭園の花は完全に放置されたなら、それ自身の単なるまがいものに劣化してしまう。植物は最高の極みにまで栽培されなければならず、庭師の全技能によって恩恵を受けなければならない。そうでなければ、それは全く粗野で、野生で、大地と空からのみ養われるのである。誰が中間的状態を気にかけるであろうか。すべての薔薇のつぼみに病害のある放置された薔薇園に、どんな価値や強みがあろうか。病気にかかった、または矮小な花は、気まぐれな条件の変化に起因することが確実であり、これまで不自然な生活の中で植物にとって神意であった人間が、放ったらかしにした結果である。けれども、吹きさらしの平原にひなぎくの高く育つ場所があり、その中に、このような手入れされないひなぎくが生じるのを月が見ている。だから、最大限にまで手入れをし栽培せよ。君の庭園の土地をわずかにも手入れし忘れるな。そこに育つ最小の植物も忘れるな。愚かな見せかけをしようとしたり、君が忘れる準備のできている空想の中で愚かな間違いをするな。さらに、植物をその場しのぎの世話のひどい結果にさらすな。今日、水やりをされて明日は忘れられる植物は、だんだん小さくなるか腐るに違いない。植物は助けを求めていないが自然界そのものがその強さを直ちに測り、死んで再形成されたり、枝が空をふさぐ大きな木に成長したりする。しかし、狂信家やある哲学者たちのように、間違ってはならない。君自身のどの部分も、それが君自身であると知っている間は、見捨てておろそかにするな。その土地が庭師のものであるうちは、植物を育てるのは庭師の仕事である。しかしある日、別の国からか死そのものから召されて、その時彼はもう庭師ではなく、仕事は終わっており、そのような種類の義務をもう全く持たない。それから彼の好きな植物はだめになって死に、繊細な植物は地と一つになる。けれどもすぐに、熱心な自然は自らのために場所を求め、そこを生い茂る草や巨大な雑草で覆ったり、若木を育てて枝が地面を日陰にするほど大きくする。忠告しよう。君が完全に亡くなり、自然へと戻り、野の花が生え風の吹き抜ける平原となるまで、君の庭園を極限まで世話せよ。そして君はその道を通り抜ければ、何が起こったとしても悲しんだり有頂天になったりしないだろう。それは、君がこう言えるからだ。「私は岩場です。私は大木です。私は強いひなぎくです」。その場所はかつて君の薔薇の木が育った所で、そこに花が咲いているかどうかには君は無頓着であろう。君があえて薔薇の花々を放ったらかしにする前に、何らかの目的で星を学ぶことを知ったに違いない。そしてその花々の放つ香りで大気を満たすことを怠ったのだ。君は道のない大気を通して君の道を知らねばならない。その道は、そこから清いエーテルへと通じている。君は黄金の門の掛け金を外す準備ができていなければならない。

 私は言う。養え、そして何も無視するな。ただ覚えておけ、世話をし水やりをする間ずっと、君は母なる自然の仕事をあつかましくも奪っているのだ。彼女の仕事を奪ってしまったため、彼女が君を罰する力がない時点に達するまで君はその仕事を遂行しなければならない。その時点で君は彼女を恐れず、彼女のものであったものを勇敢な様子で彼女へ返すことができる。偉大な母である彼女は袖で隠して笑い、笑いながらひそかに君を見ており、もし君が彼女にそのすきを与え、怠け者になり、いい加減さを増すならば、無慈悲にも君の仕事全体をゴミの中へ捨てる用意ができている。子供は人間の父親であるという意味で、怠け者は狂人の父親である。母なる自然は巨大な手を彼の上に置き、構造全体を壊した。庭師とその薔薇の木は同じように破壊され、母なる自然の活動を生み出した大嵐に襲われる。彼らは上に積もった砂が払われるまで無力であり、疲れ果てた荒野に埋められている。この砂漠の一点から彼女(自然)は創造をするだろう。そして彼女は思い切って彼女に面と向かう人の灰を使用するだろう、その人の植物の枯れた葉とは無関係に。彼女(自然)は彼の体、魂、霊をすべて同じように要求する。

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