黄金の門をくぐって

メイベル・コリンズ著『黄金の門をくぐって』の日本語訳を掲載します。

 強い人、未知の道を見つけることを決意した人は、一歩一歩に最大の注意を払う。彼は無駄な言葉を発しない。思慮のない行動をしない。どんなに地味であろうと、またはどんなに面倒であろうと、義務や役目を怠らない。しかし、それも彼の内なる目と手と足が、彼の中で生まれている場合のことである。その道を行きたいという彼の情熱的で絶え間ない願望のために、精妙な器官だけが彼を導ける。彼は物質界を学び、使い方を知っている。しだいに彼の力は他界して行き、そして霊的世界(psychic world)を知る。でもこの世を学び、その使い方を彼は知らねばならないし、よく知らない不慣れなものをつかむまで、よく知っている人生を手放すことはしない。彼が霊的器官(psychic organs)によりこのような力を身につけ、その器官が最初に肉体の肺を使い始める時、大いなる冒険の時が始まる。ほんの少ししか必要としないが、それで十分だ! だが人間は、幼い子供がそうであるように、肉体のすべての部分となるべき霊的体(psychic body)を必要とする。人間は、幼い子供を新しい人生の素晴らしさへと駆り立てるのと同じ、深くて揺るぎない信念を必要とする。それらの条件が得られれば、彼は自ら新たな環境(atmosphere)の中で生き、新しい太陽を見上げるだろう。でもその次に、新しい体は忘れずに新しい経験を古い経験に照らし合わせるだろう。彼はまだ呼吸しているが、違うふうにである。彼は肺に空気を吸い込み、太陽から生命を吸収する。霊的世界(the psychic world)に彼は生まれ、今、霊的な空気と光(the psychic air and light)に生かされている。彼の目的地はここではない。これはただの、物質生活の精妙な再演にすぎない。同様の法則に従って、彼はそこを通過しなければならない。勉強し、学び、成長し、征服しなければならない。その間、彼の目的地は大気もなければ太陽や月もない場所であることを忘れてはいけない。

 この進歩の道筋で、その人自身が進まされていたり場所を変えていると思ってはならない。そうではない。進歩の過程の最も真実な例解は、外皮や皮膚の断面図である。人は、自分の教訓を完全に学んでしまうと、物質的人生を捨て去る。自分の教訓を完全に学んでしまうと、霊的人生(the psychic life)を捨て去る。自分の教訓を完全に学んでしまうと、瞑想的な人生あるいは崇拝の人生を捨て去る。

 すべてのものをついには捨て去って、彼は大いなる寺院に入る。そこで靴が崇拝者の足から脱ぎ捨てられると、自我や感覚の記憶が外に残される。その寺院は彼自身の純粋な神性のある場所であり、すべての苦闘を通して彼に生命を吹き込んだ中央の炎が、どんなにおぼろであろうとある場所だ。そしてこの崇高な住まいを見つけて、彼はそこが天国であると確信している。彼はまだ、あらゆる知識と力でいっぱいである。外的な人間つまり崇拝し、行動し、生きている化身は、自然と手を携えてそれ自身の道を行き、この世の野蛮な成長の素晴らしい強さを見せ、知識を含むその本能によって照らされる。それというのも、その人は最も奥の聖域、まことの寺院で、母なる自然ご自身の精妙な本質を見つけたのだ。もはやそれらの間に、何の相違も、中途半端なやり方も存在し得ない。そして今、行動と力の時が来る。最も奥の聖域で、すべてが見出されるべきである。神とその被造物、それらを食らう悪魔、人々の中の愛されている人たち、嫌われている人たちが。それらの間に違いはもはや存在しない。それから人間の魂は、強さと大胆不敵さから笑い、自分の行動が必要とされる世界へと出て行く。そしてこれらの行動を起こすのに、不安、心配、恐怖、後悔、喜びは伴わない。

 この状態はその人が肉体の中に生きている間はあり得る。生きている間、それを達成しているからである。生きているということだけが、物質界の神と真実の中で行動を起こすことができる。

 感覚の対象に囲まれている人生は、崇高な魂にとっては永久に外的な状態である。それが力強い人生、成就の人生になるのは、聖域に座す王冠を戴いた無頓着な神によって活気づけられる時だけだ。

 この状態を獲得することは、きわめて望ましい。なぜなら、この状態に入った瞬間からもう悩み、不安、疑念や躊躇がないからだ。偉大な芸術家が大胆不敵に絵を描いて、後悔するようなミスを犯すことがないのと同じように、内なる自我を形作った人は自分の人生を扱う。

 だがそれは、ある状態に入った時にである。私たちが知りたいと切に思い山々の方を見るのは、入り口の形態と門への道を見るためである。門は、重い鉄の閂が掛けられたあの「黄金の門」である。その入り口への道で人はめまいを覚え、気分が悪くなる。道がないように見え、永久に終わったかのようで、道は恐ろしい断崖に沿っており、深い海の中へと消えて行く。

 ひとたびそこを渡って道が見出されれば、その困難さは素晴らしい様を呈するはずだ。とても偉大なありさまを。消えて行くその道が急に進路を変え、断崖のきわの線は足を置くに十分な幅となり、非常に危険に見える深い海の向こう側が、いつでも浅瀬で船の渡し場となる 。同じように、それは人間性の深遠な経験すべてに起こる。最初の悲しみが心をバラバラに引き裂くと、その道は終わったように思えて、空が闇に代わる。それなのに、手探りで魂が進むにつれて、困難で一見して絶望的な道の曲がり角は過ぎ去る。

 たくさんの異なる形や人間の拷問もそうである。時に、長い期間または一生を通して、存在の道は絶え間なく打ち勝ちがたい妨害と思われるものに阻止される。悲嘆、痛み、苦悩、最愛のものや価値あるものすべてを失うことは、怖がる魂の面前で起こり、つねに魂を妨害する。誰が妨害物をそこへ置いたのだろう? その説明は狂信家が劇で縮小して描写している。つまり、神が悪魔に、究極の善のために神の被造物たちをひどく苦しめさせるのだ! そんな究極の善がいつ達成するであろう。この描写に含まれる概念は、終わり、目標を前提としている。そんなものは、何もない。私たちの誰もがそれに問題なく同意することができる。人間の観察、理性、思考、知力、本能が人生の謎の把握に達することができる限り、得られたすべてのデータが、道は無限であり、永遠が明滅することはあり得ず、怠けている魂によって永遠が100万年に変えられることはあり得ないことを示している。

 個別に、あるいは全体として人間を調べると、人には明らかに二重の本質がある。私は大まかに言って、さまざまの哲学の学派がその理論に従って、人を分断し、さらに細別することを、よく認識している。私が言っているのはつまり、二つの感情の激流が人の性質に押し寄せ、二つの大きなエネルギーが人の人生を導くということである。一つは人を動物にし、もう一つは人を神にする。地上の野獣は、神の力を動物の力に服従させる人間ほどには残忍ではない。これは方向の問題だ。なぜなら二重の性質の力全部が同時に一方向に使われるのである。純粋で単純な動物は本能だけに従い、自分の喜ぶ好みを満たす以上のことを望まない。そして喜びや苦しみを自分にもたらす者でない限り、他の存在のことはほとんど考えない。動物は、残酷な抽象的愛や、自分たち自身の満足がある人間の堕落の傾向について何も知らない。したがって、獣になる人は自然の獣の百万倍の生命をつかみ、純粋な動物には十分に無垢な楽しみであるものが、随意の道徳基準に妨げられずにその人の悪徳となる。その喜びは習慣的に満たされているからだ。さらに、彼は自分の存在の神聖な力をすべてこの方向に変え、魂を感覚の奴隷にすることによって堕落させる。損なわれて偽装された神は獣性に仕え、獣性を養う。

 だから、状況を変えることができないかどうか、熟考せよ。人間はこの異様な光景が見られる国の王である。彼は獣性に神の場所を奪い取ることを許す。なぜなら、当座はその獣性は気まぐれな国王の夢想を最も喜ばせるからである。これは必ずしも長く持ちこたえられるとは限らない。どうして長く続くというのか。変化と、喜びと苦痛の間の揺れ動きと、長く続く喜ばしい肉体的生活への望みのせいで、激しい苦しみが動物的習慣に来るまでの間のことである。そして彼の奉仕能力の中の神は、肉体的生活を喜びの強烈さ、つまり珍しい、官能的な、美の喜びでいっぱいにすることによって、このすべてに一千倍の苦しみを加える。苦痛はとても強烈なため、人はどこでそれが終わり、いつ喜びが始まるかわからない。神が仕える限り、獣性の生命は長くなり、ますます価値が高まる。だが王に宮殿の外観を変える決心をさせよ。そして獣性を強制的に権威の座から追放し、神を神の場所に戻させよ。

 ああ、宮殿に訪れる深い平和! すべてが本当に変わる。もう個人的な切望や情欲の熱狂もなく、何の反抗も苦悩もなく、喜びへの渇望や苦痛への恐れもない。それは嵐の海に訪れる大いなる静けさのようだ。それは焼けつく地面に降る、夏の優しい雨のようだ。それは見知らぬ森の、滅入るような乾燥した迷路のさなかにある深い淵のようだ。

 しかし、さらにそれ以上のことがある。人間は中に神があるので動物以上であるだけでなく、人間の中には動物があるので神以上のものなのである。

 一度獣性を下位であるその正当な場所へ押しやると、君はこれまであるとは思わず知りもしなかった偉大な力を持っていることがわかる。しもべとしての神は獣性の喜びに千倍を加える。しもべとしての獣性は神の力に千倍を加える。そしてそれが結合して、人の中でこれら二つの力が正しい関係になると、人は強い王として立ち、手を上げて黄金の門の閂を持ち上げることができる。これらの力が不適当な関係であれば、王は快楽にふける王位について、力がなく、その威厳は無駄になる。神性のない動物性は、少なくとも平和は知っており、悪徳と絶望によってかき乱されることはない。

 それが全秘訣である。それが人を強く、パワフルにし、その手に天と地をつかむことを可能にする。それをたやすくやり遂げられると思うな。宗教家や有徳の人がそうするのだという考えにだまされるな! そうではない。その人たちは規範、ルーティン、決まりを満たすこと以上のことはせず、それにより獣性を抑えているのだ。(つづく)

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